書評

日記帳からあふれ出る言葉たち

文: 小川洋子 (作家)

『アンネの童話』(アンネ・フランク 著)

 いつどんな時もユーモアを忘れないアンネには珍しく、『カトリーン』に描かれる少女は、迷路に迷い込み、行き場を失って立ち往生しています。しかしだからこそ、研ぎ澄まされたナイフにも似た切れ味を持ち、忘れがたい余韻を残します。特に最後の一行は、その響きがいつまでも鼓膜を離れません。おかあさんにプレゼントするはずだった指ぬきは草の中に転がり落ちながらも、なお光っていました。母親との関係はアンネにとって複雑な問題でした。その複雑さが彼女を成長させたのだという、まさに証拠となる一行です。

 旅をするお話が多いのは、やはり隠れ家生活のせいなのだろうか、と思うと切ない気持ちになるのですが、ここに描かれているのはどれも心弾む楽しい旅行ばかりです。『パウラの飛行機旅行』は、女の子のちょっとしたいたずら心が、予想もしない大冒険に発展してゆくスリルがたまりませんし、『子熊のブラーリーの冒険』では、世界はどこにあるんだろう?と自分に問いかけながら、勇気を持って見知らぬ場所に足を踏み入れてゆく子熊を、自然と応援したくなります。

 最もアンネらしい旅は『映画スターの夢』ではないでしょうか。彼女が王室の人々やハリウッドスターにあこがれ、ブロマイドを隠れ家の壁一面に貼っていたのは有名なエピソードです。このお話の中で、“わたし”は十七歳。アンネが決してなることのできなかった、十七歳です。

 素晴らしいのは、これが単純な空想ではなく、ファン・ダーンのおばさんを納得させるための、映画スターになりたくない秘密の理由を綴っている点です。つまり、二重三重にフィクションの仕掛けが施してあるのです。キティーに宛てた手紙の形式で日記を書いたことでも分かるとおり、彼女は想像力を使えば使うほど、言葉がより広い世界へ自分を導いてくれると知っていました。十四歳にして既に作家だった、と言えるでしょう。

 ただ、私が『映画スターの夢』で一番好きなのは、結局、撮影に疲れはて、スターになる夢をあっさり捨て去る、というラストです。愛嬌のあるユーモアが存分に発揮され、まるでページの向こうで、アンネがウィンクをしているようです。

 もう一つ、どうしても触れておきたいのは、彼女がいかに自分を高めたい、理想の自分でありたい、と強く願っていたかです。その事実は『エファの見た夢』、『妖精』、『リーク』などの作品を読めば明らかでしょう。人はどう生きるべきなのか。この問いに、彼女は真っすぐ立ち向かってゆきます。架空の世界で問いを自由に羽ばたかせます。そして行き詰まった時は、自然に身をゆだね、自然から与えられるもので自分を癒すのです。『花売り娘』の主人公は、自然と神様の前で一人きりでいられる喜びをかみしめます。『ヨーケー』の少女は、次のような見事な一文によって絶望から立ち直ります。

“自然を深くしっかりと見る人は、同じようにして自分を見つめます”

 唯一、外を覗くのを許されていた屋根裏部屋の窓辺で、空やマロニエの木や枝についた露やカモメの美しさに言葉をなくし、未来への希望をつないでいたアンネの姿が、よみがえってきます。

『パウラの飛行機旅行』のラスト、大冒険を終えたパウラは、おとうさんと再会します。泣き叫びながら、おとうさんに抱きつきます。家族のすべてを失い、アウシュヴィッツから一人帰還したアンネの父オットーは、このくだりをどんな思いで読んだでしょうか。

 私たちは彼女が残した言葉を、繰り返したどることしかできません。しかし、利発でお茶目な愛すべき少女によって残された言葉の空は果てがないのですから、私たちは好きなだけ探検できます。何度読み返しても、ささやかな一行に隠された宝石を発見し、かけがえのない輝きをかみしめることができるのです。

 そういう喜びを書き残してくれたアンネに、感謝を捧げたいと思います。


アンネの童話アンネ・フランク 中川李枝子 訳 酒井駒子 絵

定価:本体710円+税発売日:2017年12月05日