書評

桐野文学の主題である「支配」の構造の最も純粋化された短編集

文: 白井 聡 (政治学者)

『奴隷小説』(桐野夏生 著)

 筋書きとしては以上に尽きるシンプルな話のなかに、桐野夏生氏の狂おしいまでの憤りが凝縮されている。桐野氏は何に憤っているのか。それは、「愚かさ」に対してである。大した素質がない自分を直視せずにアイドルになることを夢想し、母親が爪に火を点す生活によって必死に貯めた学資を食い潰してドサ回りを続ける長女の愚かさに対して。その愚かさを「健気な努力」と取り違えて、現実を直視せず、二人の娘に対して不平等な扱いをする母の愚かさに対して。これらすべてを認識し、腹を立てているくせに、「自分もアイドルになりたい」という欲望しか持つことのできない次女の愚かさに対して。そして、この愚かさの連鎖を成り立たしめている社会的背景、言い換えれば、それを一大ビジネスたらしめているところの、「キモヲタ」(=神様男)どもの欲望の愚かさに対して。

 こうした愚かさを下流社会の「構造」によって分析することは可能であり、多くの「良心的な」社会科学者たちが現にそれを行なっている。下流化した人々がまともな将来展望を持つことができないのは、「自己責任」なのではなく、彼らが置かれた苦境のためなのである、と。あるいは、キモヲタたちの「歪んだ」欲望を、それを必然化する社会構造によって説明することも可能だろう。

 重層的な支配の構造を多側面から照射し続けてきた桐野氏が、かかる「愚かさを生産する客観的構造」について認識していないわけがない。「自己責任」を問う論法が、「構造」への異議申し立てを封殺するものであることも、当然知悉しているはずである。しかし、それでもなお、桐野氏は、究極的には個人に受肉する「愚かさ」に憤り、それを問い質す。

 私は、この姿勢に心から共感する。「人々が苦しんでいるのは世の中の仕組みのせいなのだから、エライ人たちはこの人たちが救われるように改良された仕組みをつくってあげなければならない」。社会科学者の処方箋とは、つまるところ、このようなものであり、「改良された仕組み」がもちろん新たな形態の支配をもたらし、新たな構造に即した別のかたちの愚かさをもたらす。桐野氏の憤りは、こうした茶番を根こそぎ吹き飛ばす。愚かさとは個人の心と肉体に宿るものである以上、誰がその責任を取ることができるのか。それができるのは、その持ち主のみである。

 自らの愚かさを直視し、その愚かさを強いている構造を認識せよ――これほど厳しい、しかし真っ直ぐなメッセージを正々堂々と放っている知識人が、現代日本にどれほどいるだろうか。このメッセージを読者が受け取ったとき、かつてのプロレタリア文学が果たせなかった夢を、桐野文学は叶えるのではないか。そんな夢想を私は自分に許したくなる。

奴隷小説桐野夏生

定価:本体570円+税発売日:2017年12月05日


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