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生きることの真実を突きつけられる 読むほどに力が湧いてくる、比類なき作品世界

生きることの真実を突きつけられる 読むほどに力が湧いてくる、比類なき作品世界

文:森 絵都 (作家)

『真夏の犬』(宮本輝 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

『真夏の犬』(宮本輝 著)

 不思議な怖さを感じさせるのは「駅」だ。五十路を過ぎた〈私〉がローカル線のホームに居合わせた男にその駅との因縁を物語るこの小説は、意外な展開を遂げる過去の恋愛話もさることながら、しばしば語り手を動揺させる“ある音”が妙に気になる一篇だ。駅のホームにいる〈私〉の耳へ届く猛禽の声──具体的な響きや正体が明かされていないからこそなお不気味な描写がくりかえされるほどに、私にはそれがこの世ならぬものに思われてきてならなかった。ほろ酔い気分の男が吐露する過去の不義を、生涯笑顔を絶やさなかったという亡き妻はとうにお見通しだったのではないか。

 昭和の男といえば頑固一徹、黙して語らず、口より先に手が出るイメージがあるけれど、最もその像に近いのは「力道山の弟」の〈私〉が振り返る父親かもしれない。同時に、私が最も掴みがたさを感じたのもその父だった。彼の友人の元内縁の妻、喜代ちゃんに対する並々ならない執心の底には何があるのか──最初は色恋絡みと踏んでいたものの、安っぽいいかさま師と関係を持った喜代ちゃんへ示す尋常ならざる怒りの核にあるものが顔を覗かせてくるにつけ、通り一遍の昭和の男像では括れない彼の人間としての奥行きが広がっていった。喜代ちゃんといかさま師の間にできた娘に偽物の釘を見せ、「これは鉄と違う。“ハンダ”や」と笑うあたりはけっこう人が悪くもあるが、生涯、手元にいかさま師由来の力動粉末を置いていたところを見ると、語られざる何かをまだ胸懐に秘めていたのかとも思えてくる。彼の真意が気になるのと同時に、一筋縄ではいかないこの男をはたして喜代ちゃんの方はどう思っていたのかも気になる読後感だった。

文春文庫
真夏の犬
宮本輝

定価:781円(税込)発売日:2018年04月10日

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