2015.03.10 書評

真のしあわせとは何か
――宮本輝のエッセンス

文: 池上 冬樹 (文芸評論家)

『焚火の終わり』 (宮本輝 著)

 同性愛や近親相姦など性的な問題を多く含んでいる小説である。ずいぶん大胆なテーマに挑んでいて、下手をすると通俗に流れかねないのに、宮本輝の筆致は艶やかで清新、淫らがましくも清潔なエロティシズムをかもしだしている。複雑な出自と深い性愛をまさぐる物語は実に読ませるのだけれど、その魅力を語るまえに少し寄り道をしたい。久々に刊行されたエッセイ集『いのちの姿』(集英社)の味わいが濃いからである。

 宮本輝は小説に専念するために、懇意の編集者の熱心な依頼も断っていたのだけれど、数年前から年二回刊行の雑誌にエッセイを書き始め、今回七年分十四篇のエッセイをまとめた。ここにはいままでふれられることがなかった異父兄との接近を、晩年の母の台詞を紹介しながら語る「兄」、豆腐屋夫婦の養子となった子供に実父の俤を見る「ガラスの向こう」、『優駿』執筆当時の馬主経験の裏話「殺し馬券」、良き人々の不可思議な出会いと連帯「人々のつながり」、老職人が残した形あるものの真価「消滅せず」など相変わらずしみじみと読ませるものが揃っているのだが、なかでも引き込まれてしまうのは、二十代の不安神経症の日々を生々しく綴る「パニック障害がもたらしたもの」だろう。病気がいかに死の恐怖を覚えさせるかを皮膚感覚で描写していて、まことに鬼気迫るものがある。

 実際に宮本は会社通勤が辛くなり、たまたま雨宿りで入った本屋で文芸誌を読み、小説家になることを決意する。作家になればパニックの発作と恐怖を体験しなくてもいいと考えたからだが、書いても書いても受賞には至らない。でも、“私の生と死への思考の問題は、あるとき「自然」とか「風景」とか人間そのものの真の美しさに向かって一歩を踏み出”すことになる。ちょうどその頃、“文学の何たるかを教えてくれる人物とめぐり逢い”指導を受け、“小説とは言葉では説明できないものを言葉によって織り上げていくものだと気づくこと”になる。小説は“私という人間のなかからしか出てこない”、それならば“私という人間を大きくするしかない。この病気は、そのために私の内部から湧き出たのだ。/上手下手はあとからついてくる。心のなかにある風景や自然や人間のさまざまな営みを、愛情をこめて小説として書こう”、宮本はそう決めて、『泥の河』(太宰賞受賞)を書き、次に『螢川』(芥川賞受賞)を書いたのである。

 久々に上梓されたエッセイ集を手にすると、『螢川』で芥川賞を受賞して二年後に編まれた第一エッセイ集『二十歳の火影』が懐かしくなる。いま読み返すと初々しくも熱く、文学に賭ける作者の思いがまぶしいくらいだ。

 右でふれた文学修業時期の話も書いてあり、『泥の河』『螢川』に深い影響を与えた作品として、吉野せいの『洟をたらした神』をあげている(以下引用は『二十歳の火影』所収「不思議な花火」)。この作品は厳しい自然の中で貧困とむきあった農婦の年代記で、吉野は七十歳を過ぎてから筆をとった。その作品を宮本は偶然町の本屋で見かけ、家で“何度も何度も読み返した。七十五歳の百姓バッパの一言一句は、彼女の阿武隈山脈の一隅にふるいつづけた渾身の鍬の力をもって、私の中の何物かをくつがえしてきた”というのである。くつがえしてきたものは“文章というものの秘密”“決して明らかにはならぬ極意”のようなもので、そこから宮本は本を再読し、原稿用紙に向かうことを何度も繰り返して『螢川』の原型を書き上げることになるのだが、興味深いのは、“渾身の鍬の力をもって、私の中の何物かをくつがえしてきた”という表現である。宮本は吉野せい体験を語っているわけだけれど、これは現代の読者にとっては、宮本輝体験といってもいいのではないか。少なくとも、本書『焚火の終わり』を読む者は、自分の心の中の何物かがくつがえされるのではないかと思う。

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焚火の終わり 上
宮本輝・著

定価:本体620円+税 発売日:2015年03月10日

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焚火の終わり 下
宮本輝・著

定価:本体590円+税 発売日:2015年03月10日

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