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『ゴー・ホーム・クイックリー』中路啓太――立ち読み

『ゴー・ホーム・クイックリー』中路啓太――立ち読み

中路 啓太

電子版20号

出典 : #別冊文藝春秋
ジャンル : #小説

「まことにすまん。私から謝っておく」

「別に謝っていただくようなことじゃありません……お義父さん、何か気づきませんか」

「何かって?」

「ここのところずっと、元気がないように思うんです、達夫さん」

「忙しいんだろう。新憲法に合わせて、いろいろといじらなきゃならん法律があるからな。こんなときに法制官僚をやっているなんて、因果なものだ」

 そう言って、孝三郎は練炭が燃えるストーブへ足を伸ばした。冷えた足裏を炙る。昭和二十二年二月の寒い時季だった。

 前年の十一月には日本国憲法が公布され、施行はこの五月に迫っている。

「忙しいのは、忙しいのでしょうが……」

「あいつ、体に悪いところでもあるのか?」

「達夫さんに聞いても、『疲れているだけだ』って言うばかりで」

「やっぱり、そうだろう」

 しかし、雅子は納得のいかない顔つきだ。

「職場で何かあったんじゃないかと思うんです」

 雅子の深刻な顔を見て、孝三郎も少々心配になった。だが、役所勤めをしていれば、気にくわないことがあるのは当たり前だ。

「心配いらんよ」

「でも……役所は自殺する人が多いと言いますし」

 孝三郎の呼吸が一瞬、止まった。

「いくらなんでも、それはないだろう」

「私も、そうは思うのですが……」

「新しい憲法が施行されたら、あいつも一息つけるさ。新緑の中でハイキングでもすれば、元気を取り戻すだろう」

 孝三郎が明るい声で言うと、雅子はうなずいて引き下がったが、その顔はやはり浮かないものであった。
 

 翌朝、布団の中にいた孝三郎は、雅子が庭にいる気配を感じた。まだ薄明の中だが、朝食のお菜をとるために畑に出ているのだろう。とっくに目が覚めていながら、無為に仰臥していた自分を、孝三郎は恥じた。

 そのうちに雅子が、

「あれ、あれ」

 などと言うのを聞いた。とても驚いた声だ。

 何事だ――。

 孝三郎はがばと起き上がった。寝巻きの上からどてらを羽織り、慌てて庭に出る。

 雅子は竹箒を手にして、畑の脇にしゃがみこんでいた。お腹が痛くなったのだろうか。

「大丈夫か?」

 しかし、振り返った雅子は、昨日の憂い顔が嘘のように明るい笑顔だった。立ち上がると、地面を指さす。

「お義父さん、出てきましたよ」

 目があまりよくない孝三郎は歩み寄り、雅子が指さした先をのぞき込むように見た。地面から細長い葉がいくつも生え、その真ん中に、緑の茎が十数センチ伸びている。そしてその先端には、うつむくように白い花がついていた。

別冊文藝春秋からうまれた本

別冊文藝春秋 電子版20号
文藝春秋・編

発売日:2018年06月20日

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