2018.08.09 別冊文藝春秋

『ゴー・ホーム・クイックリー』中路啓太――立ち読み

文: 中路 啓太

電子版20号

「別冊文藝春秋 電子版19号」(文藝春秋 編)

前回までのあらすじ

 終戦直後の昭和二十一年の初め、日本はGHQの憲法案を押しつけられてしまう。この案を翻訳して日本の法律らしく形を整え、新憲法の下敷きにせよというのだ。翻訳にあたることになった内閣法制局の佐藤達夫は、ある日総司令部を訪問すると、そのまま新しい憲法の確定稿を作ることを迫られ、一昼夜“監禁”される。GHQとの厳しい折衝、枢密院での激しい議論を経て、憲法改正案は衆議院に提出された。その中で第九条は物議をかもしつつも「芦田修正」を加えて、将来の戦力保持に含みを持たせることで結着する。紆余曲折を経ながらも何とか新憲法は公布の日を迎えるが、中心となって憲法案を作った佐藤の心は晴れなかった。


スノードロップ



 佐藤達夫の父、孝三郎は、午睡から目を覚ました。

 膝の上には、新聞紙が広げられている。壁に寄りかかったまま、眠りに落ちてしまったようだ。

「すみません。起こしてしまいましたか」

 嫁の雅子が、そばの卓袱台に、湯気の立った茶碗をのせながら言った。

「いや、いいんだ。昼間に眠ると、夜中に目が覚めてしまうからな」

 孝三郎は、数えで八十歳である。内務官僚として勤めていたのはとうの昔で、いまや、毎日これといってすることもない。ただ、新聞を隅々まで読んで時間を潰すばかりだ。敗戦後の難局にあって、自分はまさに厄介者だと思って情けなくなる。

 そのいっぽうで、雅子は夫や二人の娘を仕事や学校に送り出したあとも、掃除、洗濯、繕い物、畑仕事と忙しく働き、舅の自分にもかいがいしく尽くしてくれるから、まったくもって申し訳ないのだ。

「穀潰しの老いぼれに、そんなに気を遣わんでいい。茶くらい、自分でいれられるから」

 雅子は、くすっと笑っただけだった。忙しい身だから、さっさと立ち上がるかと思えば、目の前に座ったままなかなか動かない。

「あの、お義父さん……達夫さんのことなのですが」

 もしや、喧嘩でもしたな、と思った孝三郎は、すぐに居住まいを正し、頭を下げた。

「あれは私に似て、どうも愛想というものがないのでな。すまん」

 雅子は、倅にはまったくもったいない、よくできた嫁だった。腹を立て、出ていってしまったりしては大変だと思った。

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