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『ゴー・ホーム・クイックリー』中路啓太――立ち読み

『ゴー・ホーム・クイックリー』中路啓太――立ち読み

中路 啓太

電子版20号

出典 : #別冊文藝春秋
ジャンル : #小説

「スノードロップですよ」

 雅子の声は興奮したものだ。

「たしかに、スノードロップだな」

 孝三郎の声も、つい大きくなった。

 倅の好きな花だった。

 達夫の植物に対する関心は玄人跣で、若いころから、学校の勉強のかたわら、植物学の本やら、植物図鑑やらを図書館で借りては読みあさっていた。このヒガンバナ科のスノードロップも、もともと日本のものではなく、ヨーロッパからコーカサスにかけて野生するらしいが、竹久夢二の絵に描かれているのを見て気に入った達夫は、八方手を尽くして株を入手し、庭で咲かせたのだ。

 日本で育てるのは、それほど簡単な花ではないようだった。欲しいという人がいると、達夫は快くわけてやるのだが、よそで育てようとするとすぐに枯れてしまうとのことだ。

 しかし、達夫が大事に育て、守っていた庭のスノードロップも、空襲にあってから、見当たらなくなってしまった。「家が焼けたときに、根本から焼けてしまったのだろう」と言って、達夫はひどく残念がっていた。それが、戦災から二年経って、たった一輪だけだが、ひょっこり顔を出したのだ。

 三枚の花弁を閉じ加減に、頭を垂れる花の姿は、まるで無沙汰をしていたことを詫びているかに見えた。この花にそれほどの思い入れを持っていたわけではない孝三郎も、冬の朝の寒さを忘れるほどの熱が、体全体から湧いてくるように感じた。この花を見れば、倅の元気もいっぺんに蘇るに違いない。

「達夫はまだ寝ているのか? はやく教えてやれよ」

「そうですね。いま、すぐに」

 雅子は駆け足で家にあがった。

 やがて、寝巻き姿の達夫が、革靴をつっかけて、雅子とともに庭へ出てきた。髪には寝癖がつき、眠たそうな顔で、風の冷たさに肩をすぼめている。

「ほら、見て。咲いてるでしょ」

 雅子が示した花の前で、達夫はしゃがんだ。

「ああ、ほんとだね……どうして、いまごろになって出てきたんだろうね」

 感激して笑うわけでも、泣くわけでもなく、寝ぼけたような口調でそう言っただけだった。やがて、立ち上がると、

「寒いね」

 と言い残して、家の中に引き返してしまった。

 孝三郎は茫然と、雅子と見つめ合った。

 こりゃ、なかなかの重症かもしれない――。

 見上げると、さっきより朝の光が強くなっている。

「憲法施行まで、あと二月半か……それまでは、やつも大変だよな」

 雲一つない真冬の東京の空に向かって、孝三郎はつぶやいていた。

別冊文藝春秋からうまれた本

別冊文藝春秋 電子版20号
文藝春秋・編

発売日:2018年06月20日

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