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東大生強制わいせつ事件が照らすもの

東大生強制わいせつ事件が照らすもの

姫野 カオルコ

『彼女は頭が悪いから』


ジャンル : #エンタメ・ミステリ

『彼女は頭が悪いから』(姫野カオルコ 著)

『彼女は頭が悪いから』という題名の本を出すことができた。

 出すことができた、という言い方をするのは、多くの他人の支えや、自らの健康や、版元の状況等々あって、ようやく本は出せるものだからだ。

 現代は、「筧美和子はエロい。乳がとくにエロい」と、こんなこともすぐに活字にできて、賛同者で座になって盛り上がれる。

 だが20年ほど前までは、肉筆を活字にすること自体が容易ではなかった。苦労して活字にしても、それを不特定多数の人に知らせることはもっと困難だった。

 それに私の場合は、文章を書くことを仕事にしてからずっと地味に、というか細々と続けてこられただけなので、何十年たっても、自分の本が形になって目の前に現れると、「出すことができた」と、いろいろな人や、いろいろなことに感謝する。

 

『彼女は頭が悪いから』は創作(小説)である。

「東大生5人による強制わいせつ事件」は事実であるが、創作は、この事実を調査し、報告するものではない。

 この事件がおきたことで、いろいろなことを考えた。ぐつぐつ煮るほど考えた。それを綴ったものである。

 ぐつぐつ考えたくらいだから、この事件に関することは、それなりに調べた。「それなりに」の範囲でしか調べることはできない。あたりまえだ。私は刑事でも検事でも判事でもない。ジャーナリストでもない。

 インターネットの登場により、おびただしい人々が、おびただしい人々のプライバシーを探ろうとする。そして、このツールは探り得る。ただし、あやふやに。

 おびただしい人々が、おびただしい人々のプライバシーを、あやふやに洩らしているからだ。

 ためしに検索エンジンに「東大強制わいせつ」と入力すると、加害者の苗字〇〇に続いて、「〇〇 現在」という項目が自動的に出てくる。事件の加害者は今どこで何をしているのか、知りたい人が、おびただしくいるらしい。

 現在というのが、公判後の行動を指すのであれば、〇〇さんが事件後に何をしたか、私は〇〇さんの御両親の知人から聞いた。××さんが新たな職場で活躍するインタビューも見た。△△さんには偶然にも道路で会った。詳細を、私は言わない。ぜったいに。

 言うべきではない。

 なぜなら、この事件の加害者たちは、一部は示談が成立したり、一部は法律によって裁かれたからである。

 そして、私が公判後に聞いたこともまた、あやふやだからである。

 事実としての、この事件について、私は小説にしようとして、調べたわけではない。ニュースや新聞での報道では、よくわからなかったから調べただけである。

〈この事件がおきたことで、いろいろなことを考えた〉と、先に書いた。

〈いろいろなことを考えた〉きっかけが、事実としておきた東大生強制わいせつ事件だったということであって、『彼女は頭が悪いから』は、被害者も含めた関係者の名前を仮名にした再現ドラマでは、まったくない。

 いろいろなことを、考え続けて、月日が経った。そして、一つの小説を書き始めた。

 原稿にとりかかったとき、報道されたことは措いて、私がそれなりに調べたことは、ぜんぶ捨てた。

 いっさい捨てた。

 捨てるのに、かなりな労力を要したほどだ。

『彼女は頭が悪いから』というのは、〈いろいろなことを考えた〉その中身である。

 私が考えたことなのだから、たんに「ものがたり」である。それは架空であり、架空である以上、非実用的なものだ。

 しかし、架空で非実用的な形態でなければ、書いている私や、私の隣人や知人や、同じ電車に乗り合わせたり病院の廊下ですれちがった人等々、生きて暮らしている人たちに在る真実は描出できないではないか。

 人の気持ち(人間が、昆虫や機械ともっとも違う部分)というものが、非実用的で非合理的なのだから。

 たとえば、だれかを尊敬する気持ち。たとえば、だれかに恋する気持ち。こうした気持ちは、昆虫や機械にはない典型的な例だが、尊敬と恋愛の方向は相反する。

 ミケランジェロのピエタの美しさを崇めても、ベルニーニのプロセルピナの不運にときめく男性のほうが格段に多い。ましてや、オナニーの淫夢のさなかには、対象を尊敬していなければいないほど、あるいは尊敬の位置からひきずりおろすほど、情欲が高まる嗜好の人間は少なくない。

 性欲処理産業のプロダクトする店や動画や映像や漫画等々には、己の性欲が向かう相手を凌辱している夢想を与えるように考案されたものが多くある。

 凌辱している夢想であって、凌辱しているのではない。架空であって現実ではない。

 人の気持ちは非実用的だ。架空であって現実ではないから、だから、性器的昂奮がおこるのである。

 人の気持ちは非合理的だ。もし、現実であって架空ではないなら、おぞましさや吐き気や恐怖だけがおこるのが、それが、社会に棲む人間である。

 こうした真実は、非実用的で非合理的なものがたりの形態をとることで、詳らかな描写が可能になり、如実になる。その果てに、理性と論理が現れるから、創作を、ときには“小説”と呼ぶのではないか。

 なれば、『彼女は頭が悪いから』は、読む者をいやな気分にさせる小説である。

 それは、作中登場人物に対してというよりも、自分自身の中にあるいやな部分を、照らして見せつけられる、いわばミラー小説だからである。

 作中登場人物の東大生たちが、もし、「東大男子とセックスしませんか」と呼びかけ、「キャー、したいわしたいわ」と集まってきた女子学生と性交しているのであれば、読む者はさほどいやな気分にはなるまい。登場人物たちが、こういう行動をしなかったから、いやな気分になるのである。

 作中の登場人物たちが表に出すのは「ぼく東大なんだけど……」くらいで、「東大なんだけど」の後は「……」だ。出された相手も「あ、そうなんだ……」くらいのリアクションをする。両者間にある、この「……」に、平和で安全な(今のところ)日本の、平成末期の首都の、毎日の暮らしの中にある、様々なぬめりとざらつきが煮しめられているから、いやな気分になるのである。

 しかし、人の気持ちとは、非実用的で非合理的ながら、いや、だからこそ、いやな気分を拭い、吹っ飛ばそうとする何か、も持っている。吹っ飛ばしたあとに何かが鮮明になることもある。

 何かとは何か、どんなことなのか。一言ではあらわせないから、非実用的で無駄だと馬鹿にされながら、「ものがたり」は在ってきて、在っていくのだと、私は思う。


ひめのかおるこ 一九五八年滋賀県生れ。九〇年『ひと呼んでミツコ』で単行本デビュー。二〇一四年『昭和の犬』で直木賞を受賞。『受難』『ツ、イ、ラ、ク』『謎の毒親』等著書多数。

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