書評

人間関係にある抑圧とエロスというタブーを怖れず描いた天才漫画家

文: 桐野夏生 (作家)

『月読 自選作品集』(山岸凉子 著)

『月読 自選作品集』(山岸凉子 著)

「天沼矛(あめのぬぼこ)」

「天沼矛」とは、イザナギ神とイザナミ神が、この矛を使って渾沌とした水沼をかき混ぜ、矛から滴り落ちた滴が島になったという、「古事記」に表れる矛のことである。

 第一話「夜櫻」の蛇神は一人いる寂しさに耐えかね、その矛を使って、一人の乙女を生み出す。だが、乙女は蛇神と同様、寂しくて毎晩泣いているのだ。蛇神は乙女を哀れに思い、おのれを焼いて、夜の帳(とばり)を払おうとする。蛇はエロスの象徴であり、乙女が自らの乳で火を消すというくだりも、生殖を仄めかしている。そのせいか、この作品は珍しくハッピーエンディングだ。

 他方、第二話の「緋櫻」は、結婚を控えた娘の新居を建てるために、見事な桜の樹を切ろうとする物語だ。娘の相手は再婚だが、娘はその事情をまだ知らない。やがて、桜の樹には、ある秘密が隠されていたことがわかる。この作品をホラーと呼ぶ人もいるかもしれないが、ここにも姉妹間の葛藤が透けて見えて悲しい。

 第三話の「薄櫻」は、主人公の少年が療養所で出会った年上の「荒雄」との儚い交流の物語だ。人魂は誰かの霊魂だという。老人の人魂は低いところを飛び、若者の人魂は高いところを飛んでいくという。その話を聞いた主人公は、退院したある日、自室の窓から高い空を行く人魂を見て、荒雄の死を知る。美しい物語だ。

 どの作品も「桜」が現実を変える「矛」となっている。「矛」によって何かが生まれ、何かが変わっていく。

月読山岸凉子

定価:本体780円+税発売日:2019年04月10日


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