Word を立ち上げ、しばらく白紙のページをぼんやり眺めていた。ふと、Apple Musicの検索窓に『ゴルトベルク変奏曲』、と打ち込む。千葉雅也『アメリカ紀行』の章数は『ゴルトベルク変奏曲』の変奏と偶然同じになったそうだ。グールド(81年版)、マレイ・ペライア、イゴール・レヴィット、マルティン・シュタットフェルト、アレクサンドル・タロー、セルゲイ・シェプキン。色々聴いてきたと思っていたのに、ライブラリに入っているアルバムは意外と少ない。アメリカ人だから、という単純な理由でペライア版を聴きながら書いてみることにする。数年前に買ったボックスセットに入っていたけれど、あまり聴くことがなかった一枚。他のピアニストの演奏に比べても随分と穏やかで、初めて聴いたときは少しぼんやりした印象を受けた。
『アメリカ紀行』において千葉は、アメリカにいながら周りの環境が「まるごと来日しているみたいな感じがする」と言う。二〇〇〇年代中頃、五年ほどアメリカに住んでいた私は環境に馴染むのに随分と苦労した。アメリカ滞在時のことをまとめたエッセイ集『やがて哀しき外国語』の中で村上春樹が、「すらすら外国語が喋れてコミュニケートできるからといって個人と個人の気持ちがすんなりと通じ合うというものでもない」と書いている。当時これを読んで、私は随分楽になった。そして、それにどこか甘えていたのかもしれない。どれだけ英語で会話ができるようになっても、目の前にいる誰かと分かり合えることはないのだという諦めはアメリカ滞在中、ずっとつきまとっていた。しかし、通じ合うことをひとまず放棄したおかげで生活しやすくなったのもまた事実だった。
コーヒー屋で店員に名前を聞かれ面倒になって、千葉はDavid と答える。英語での発表中に即興で話し、「英語を話すという一種の演技、あるいは「ごっこ」がおもしろくなってくる」。英語を演じること。David となり、違和感を覚えていた二人称主体の会話にも慣れ、Lyft(乗合も可能な配車サービス)の運転手にすらすらと定型句的な挨拶を返す……そのような演技力を、滞在中千葉は磨いてゆく。
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