「確かにいた人たち」だからこそ書き残したい
――その物語の器としてキャバレーがあるわけですが、キャバレーの何がそこまで高殿さんを駆り立てたのでしょう。
高殿 今回『グランドシャトー』を書くにあたってたくさん調べてみたのですが、高度経済成長のときのキャバレーのような歓楽業って本当に記録に残っていないんです。がんばれば私が文化論を書けてしまうくらい、その分野を研究している人がいませんでした。どれだけ臭い物に蓋をされてきたのだろうと。ルーたちのようなホステスは絶対いたはずなんですけど、知られずに消えていってしまう。そういう人たちに思いをはせることで創造力を刺激されました。記録が残っていないからこそ「いたんだぞ」というふうに、私がいま残さないとなと思ったんです。
――キャバレー文化の記憶を残したいという使命感があったわけですね。
高殿 日本の高度経済成長期に一世を風靡した文化が何も残らずに消えてしまうのはとても寂しいことだと思います。だから北野武さんが小説にしたり、「白いばら」(銀座にあったキャバレー、2018年1月に閉店)の閉店が話題を集めたりするんですよね。でもそれらは東京のキャバレーのことで、関西のキャバレーは後回しになってしまうと思うので、私が少しでも関西のキャバレー文化について書いて、そこから私のあとにこういった題材で書きたい、研究をしたいっていう人が出てきたらいいことだと思います。もともと、私はほかの人がやっていないことを書いてきたので資料に困ることはよくあったんですけど、残さなきゃって思ったのはこれが初めてかもしれません。
――キャバレーを知らない世代の人たちに、その魅力を伝えるとしたら?
高殿 キャバレーは美人だから1番になれるわけじゃなくて、顔は並でも会話がよければ人気者になって稼げる懐の深さがありますし、法律的に踊れるステージがなくてはいけないので物理的にキャパが広いところも魅力です。広いから、その日暮らしの日雇い労働者や年金暮らしの方が来てもいい意味で混じれちゃうんです。そういう場所が必要だったので高度経済成長のもとで発展した。いまアイドルや2.5次元のライブに行ってペンライトを振っている女子たちって、ある意味それのかたちを変えたパターンだと思うんです。
――ペンライトを振る現代の女子とキャバレーに集まっていた昭和のサラリーマンが同じということでしょうか。
高殿 似ている、と感じます。自分を傷つけないものに投資するところが。キャバレーに通った男の人たちも、自分を絶対に攻撃しない女性に褒めてもらい、癒してもらっていたんですよね。会社では男同士の潰しあいやいじめもあって、家では奥さんが子育てでパンパンになっている。そういうときの逃げ場所がキャバレーだったのかなと。そこにいまペンライトを振っている女子たちの気持ちに似たものを感じます。頑張って働いて疲れていて、家にも癒してくれる存在も特にいない。あるいはだれかがいても同じように働き疲れている。誰かに癒されたい、最低でも拒絶されたくないっていうところが共通しているように勝手に思っています。
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