コラム・エッセイ

こいつぁいけねぇ

髙田 郁

#あしたを読む #言葉で元気に #コロナで思うこと

 赤飯というと、本来は餅米を蒸して作るものだが、我が家では、うるち米に餅米を少し混ぜて炊いて作る「赤ご飯」だった。家族の誕生日やお正月にはこの赤ご飯が必ず食卓にのぼった。色がとにかく綺麗なのだ。美しい色の秘訣は、小豆の煮汁にあった。

 渋切りのあとの小豆の煮汁を、うっかり捨てでもしたら大目玉を食らう。ボウルに取った煮汁を、玉杓子で掬(すく)い、上からボウルに落とし込む。煮汁を出来るだけ空気に触れさせることが大事だった。高いところから煮汁を落とす。零(こぼ)さないようにするには、コツと慣れが必要だった。「何て上手!」とおだてられて、幾度も幾度も作業を繰り返す。この煮汁で赤飯を炊くと、びっくりするほど美しい色に仕上がる。嘘じゃないから。

 さて、お赤飯を炊く、というと祝い事のイメージがあるけれど、江戸時代もそうかといえば、少々、事情が異なる。「嬉遊笑覧」で名高い喜多村信節(のぶよ)の著作に「萩原随筆」というものがあり、その中に「京都に(て)は吉事に白強飯を用い、凶事に赤飯を用いること、民間の習わしなり」とある。おそらく京に限ったことではないのでは、と思う。また、凶事には、流行り病も含まれるだろう。
 江戸時代、病にかかると赤飯を食べていた。何せほら、赤い小豆には邪気を祓う上、解熱作用があるのだから。はしか絵にも、赤飯と思しき物が描かれている。麻疹に罹患すると赤飯を食べ、回復すると、もう一度、食べた。追い鰹ならぬ、追い赤飯だった。それほどまでに、小豆は頼りにされていたのだろう。

 赤飯ばかりではない、江戸時代、小豆を用いる料理といえば、小豆粥も外せない。

 喜田川守貞が記した、通称「守貞漫稿」に、京坂と江戸、三都で一月十五日の小正月には、小豆粥を食す習慣があった、とある。

 京坂のひとたちは、実はお粥が大好きだった。三食のうち、朝は大抵、茶粥を食べる。冷や飯をお茶(それも宿茶と呼ばれる前日の飲み残しのお茶)でぐつぐつ煮て、塩味をつけた。当然、小豆粥も塩味だった。

 ところが、江戸っ子はお粥が嫌い。脚気を患うほど白いご飯が大好きな江戸っ子にとって、お粥など論外なのだ。「あんなもの、米に対する冒とくじゃねぇか」なんて啖呵が聞こえてきそうだ。しかし、七種粥と小正月の小豆粥だけは避けて通ることが出来ない。ではどうするのか。先の「守貞漫稿」によれば、白砂糖をかけて、甘くして食するのだそうな。実際に試してみたけれど、善哉に近い感じがして、これはこれで美味しい。

 充分な医療技術もない時代、ひとびとは病を遠ざけるために小豆を摂取し、病を得たら得たで早く回復するべく小豆を頼った。私たちの先祖は、それほどまでに小豆の恩恵に浴してきたのだと思う。

 だが、時代が下るにつれ、少しずつ小豆の肩身は狭くなったのではないか。食料品売り場で「済みませんね、目立たないけどここにいます」という感じで売られているのを見ると、何とも切ない。でもね、小豆って英語でも「ADZUKI BEAN」なのだから、もっと威張って良いのに──いつもそう思うのだが、かくいう私も、小豆を使うのは「赤飯」「小豆粥」「南瓜のいとこ煮」「善哉」くらいか。一時期、作品執筆のため練羊羹の試作を繰り返し、一生分の餡を作ったこともあったが、今は記憶も朧だ。