コラム・エッセイ

こいつぁいけねぇ

髙田 郁

#あしたを読む #言葉で元気に #コロナで思うこと

 昔、母は、よくお手玉を作ってくれた。

 中に入れるのは小豆で、糸で縫い閉じながら、「食べるものが無くなっても、これがあるからね。覚えておいて」と幾度も繰り返した。昭和三年生まれの母にとって、戦中戦後の「飢え」は切実で、決して忘れることが出来なかったのだろう。

 端切れを使った綺麗なお手玉のうち、幾つかは、大事なお守りとして持ち続けた。今も、手に取って振ってみると、かさかさと乾いた優しい音がする。

 しかし、何故、小豆なのだろう。お手玉の中身は米でも大豆でも良かっただろうに、何故、小豆なのか。子どもの頃から不思議だった。戦争中、小豆は贅沢品だったと聞くが、果たしてそれが理由なのか、ずっと謎だった。

 時代小説を書くようになって、さまざまな江戸時代の文献、ことに絵を沢山、見るようになった。歌川広重の「おさな遊び正月双六」や「風流おさな遊び」の中に、お手玉で遊ぶ童女を見つけた。随分と小さなお手玉だけど中身は何かな、小豆だと良いな、と微笑ましく眺めた。

 目を通す資料の中には「はしか絵」もあった。江戸時代、麻疹(はしか)は「命定め」と言われるほどに恐ろしい病気で、助かるためには神仏に縋るほかない。呪(まじな)いのひとつに麻疹退散の絵を飾る、というのがあった。「はしか絵」と呼ばれる絵の中の子どもたちは、大抵、赤いものを身に着けている。当時、疫病神は赤い色を嫌う、と信じられていたがゆえであった。

 疫病神に限らない。古来、赤は邪気を祓い厄を除ける、とされている。さて、では昔から在って、赤い色の食べ物と言えば何か。真っ先に思い浮かぶのが、小豆ではないだろうか。「はしか絵」の中でも、食べて良いものとして挙げられるのは小豆だった。お手玉の中に小豆を入れるのは、実はそんな意味があったのではないか、と思う。

 おっと、赤いだけが取り柄だと言ってしまっては、チコちゃんならぬ、小豆に叱られる。

 私たちの先祖は、縄文時代から小豆と親しんでいたとされる。当初はおそらく薬として用い、やがて食の中に取り入れた。寛永七年(一六三〇年)刊行の「和歌食物本草」には「赤小豆こそ甘酸ゆく平毒はなし、水を下して熱を冷ますなり」とある。また、本郷正豊というひとの記した「医道日用綱目」(別名「医道重宝記」)にも「熱を去り、渇きを止め小便を通じ酒毒を解(げ)す」とある(※「和歌食物本草」「医道日用綱目」とも、国立国会図書館のデジタルコレクションで公開中)。つまり、小豆には解熱作用と浮腫(むく)み取りの効能があることが、江戸時代には既によく知られていた。

 身体に良いものを、美味しく食べたい──時代が変わろうと、ひとの思いというのは変わりがないのだろう。乾物の小豆を、いかにして早く、柔らかく煮るのか、江戸時代のひとたちも色々と試していた。

 早く煮るためには、瀬戸物の割れを入れろだの、竹の皮を一枚入れろだの、蓋の上に火打金と火打石を置けだの、藁を結んで入れろだのとある。試してみようか、という気にもならない。ゴメンなさい、江戸のひと。

 それでも、例えば柔らかく煮る方法として「一度煮て塩を打ち込む時、最初の湯をこぼして水を入れ替え、また煮るとよい」(「里俗節用重宝記」)という記述に巡り合ったりすると、「そうか、茹でこぼして渋切りするのは、もうこの頃からやっていたのか」と感心してしまう。こうした昔からの積み重ねが、今の私たちの食を作っている。

 ところで、私が子どもの頃(昭和四十年代)、お手伝いの筆頭は鰹節削りだった。削り器でカシカシと鰹節を削る。削った傍から味見をするので、なかなか終わらない。ほかにも、うすいえんどうを鞘から外したり、絹さやの筋を取ったり、もやしの根を取ったりするのも、子どもの役割だった。中でも私が好きだったのは、赤飯を作る際の煮汁係(ほかに適切な呼び方がない)だった。煮汁係、と聞いてピンと来たあなた、もしや同年輩かしら。