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神秘的な時間の交わり

神秘的な時間の交わり

文:白石 一文 (作家)

『死の島』(小池 真理子)

出典 : #文庫解説
ジャンル : #小説

『死の島』(小池 真理子)

 小池真理子さんの作品は、どれも虚無の超克をテーマとしている。

 それは、別の言葉で言うならば、事の是非善悪を越えて、人間はいかにすれば自由に生きられるのかを常に自作のなかで追究しているということでもある。

 虚無というのは人間存在の根幹をなすもので、「不自由」という言葉に置き換えることもできる。なぜなら、虚無は自由意志の一切差し挟まれる余地のない「誕生」によって生じ、これまた一切の意志を撥ねつける「死」によってあらかじめ決定づけられたものだからだ。人は何の意志もなく生まれさせられ、死にたくないと叫びながら死なされてしまう。最初と最後に選択権のない私たちの人生に真実の自由があるはずもなく、その徹頭徹尾不自由な「我が人生」の本質が虚無以外の何ものかであろうはずがないのである。

 真実の自由が与えられていないがゆえに、むしろ私たちは、この短くはかない人生の中で自由を求める。自由とは、自分が自分として自分らしく生き通したいという謙虚で切実な願いに過ぎない。小池さんは小説というメディアを使って、その謙虚で切実な願いの成就がいかに困難なものであるかを丁寧につまびらかにし、にもかかわらずそうした自由を求めることが私たちの人生にとってどれほど大切で尊いものであるかを訴えつづけている。

 このどうしようもなくむなしい人生に抗うには、否応なく自由を求めねばならない。たとえそのことによって「孤独」という耐え難い副作用を呼び起こしたとしても、最後には一人ぼっちで死んでいかねばならない私たちは、それでもなお自らの自由を守り抜くべきなのだ――そんなふうに小池さんの小説はいつも私たちを励ます。

 自由につきまとう孤独をいかにして飼いならすか――これもまた小池作品の重要なテーマの一つである。『恋』にしろ、『欲望』、『無花果の森』、そして私の大好きな『虹の彼方』にしても小池さんは男女の複雑な関係を巧みに表現することで、恋愛が孤独を癒す最も重要な手段の一つであることを示唆してきた。それはまた、人生の虚無自体を一時的に打ち破る、限りなく実体に近い幻影ともなり得るのだと彼女は説き、その小説世界における説得力は圧倒的と言ってもよい。

 不動の生死によってのみならず、人は人生の盛りの真っただ中にあっても様々な形で自由を制約される。国家やイデオロギーのくびき、倫理道徳のくびき、金銭のくびき、学校や会社、仕事や結婚、親や子、きょうだいのくびき。数え上げればきりがない。世界は、私たちが生きたいように生き、やりたいようにやることを徹底的に阻むありとあらゆる障害物で満ち溢れているかのようだ。

 そうした現実世界の障害物など片っ端から蹴散らしてしまえばいい――不倫、ドメスティックバイオレンス、性的不能、近親相姦といったただならない男女関係を物語の中心に据えて、小池さんは長年、本当の自由の意味を問いかけてきた。何よりも私たちにとって重要な課題は、この人生という虚無とどうやって対峙するのかということ、自由の代償として甘受せねばならない孤独というものとどうやって折り合いをつけるかということ、その二つだけだと彼女の小説はいつも語っている。

 言わずもがなも甚だしいが、小説とは人間を描くものであり、人間とは何か? という問いに作家が真剣に答えようとする作業それ自体でもある。従って人間に対する何らかの新しい知見、目を瞠るような表現が一つでも含まれていなければ、それはちゃんとした小説とは言えない。

死の島
小池真理子

定価:880円(税込)発売日:2021年03月09日

沈黙のひと
小池真理子

定価:660円(税込)発売日:2015年05月08日

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