〈父恋いの文学〉というものが、日本近代文学史において特徴的に清冽な流れをなす。
もちろんその以前にも、父を恋う娘の想いはあったであろう。遥かいにしえの少女が書いた『更級日記』にも、ほのかに父恋いの香気はただようではないか。
しかし何といっても、女性が勢いある書き手として猛然と台頭する近代において、特に女の子の教育を母親のみにまかせず、知的な父親が積極的に女性教育に関わりはじめる大正リベラリズムの時代を経て昭和にかけて、娘の手による〈父恋いの文学〉が堰を切って流麗にほとばしる。女流文学の一つの精華といえる。
その最たる例が、森鴎外令嬢・森茉莉の文学である。デビュー作の随筆『父の帽子』以来、森茉莉は一身にその愛を浴びて育った父・鴎外の面影を語りつづける。老いてゆく孤独のなかで意志的に、理想の男性にいつくしまれた原初の愛の記憶を取り戻そうとする。
森茉莉にならんでもう一人思い出されるのは、円地文子。父は古典学者の上田万年で、王朝文学の教養を恋愛小説にいかす円地文子の文学の手法はそれ自体が、渾身の知を娘にそそいでくれた愛父へのオマージュである。
そして――今やこの系譜に、小池真理子の『沈黙のひと』が加わった。本作は、平成を代表する〈父恋いの文学〉であるといってよい。
小池真理子は多くの人が知るように、艶やかな恋愛小説の名手である。虚構とドラマ性を駆使し、薔薇のようにあでやかな色香の物語を多数さまざまに紡ぎ出してきた。
その人が本作では――エッセイを除いてはほぼ初めてといってよいだろう、虚のあいまにかなり露わに自伝的な素顔を示してきた。こころの奥に秘めた深い哀しみの扉をひらいてみせた。あっと驚いた愛読者も多いのではなかろうか。
小池真理子の文学的な新境地としても、また作家論としても注目される。
本作の主人公は、二〇〇九年の春に享年八十五歳で逝った三國泰造。彼は短歌を趣味とする。本書の巻頭には、若き日の彼が学徒出陣するさいによんだ歌「プーシュキンを隠し持ちたる学徒兵を見逃せし中尉の瞳を忘れず」が掲げられる。
そしてこの歌は虚構ではない。作者による巻末の後書きにはこうある。
なお、「三國泰造」の作とした短歌はすべて、わが父、小池清泰によって詠まれたものである。
本書は亡き父に捧げる。
つまり『沈黙のひと』とは、三國泰造という時代に揉まれて生きぬいた一人の企業戦士の困難な生を描く小説であり、と同時に作者の父・小池清泰の亡き魂に捧げられる哀切な鎮魂記なのである。
私だけではないと思う。始まりのページをひらいた時からもう、父恋いの濃密な声がそこここにこだまする。声にならない声が聞こえる。
お父さん。お父さん、お父さんお父さん、お父さーん……。
いつしか書き手とともに、読み手の自分も涙にみちて心のなかで必死にそう叫んでいる。