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神秘的な時間の交わり

神秘的な時間の交わり

文:白石 一文 (作家)

『死の島』(小池 真理子)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

『死の島』(小池 真理子)

 人間を人間ならしめているものは一体何なのか? 当然人間は他の動物と地続きの存在ではあるが、その発達した神経細胞によって動物的な諸機能を整理、分析、統合し、情動という非常に複雑な系を組み立てている。従って、人間を知るためには、情動を丹念に観察して言語化しなくてはならない。そうすることによって初めて私たちは人間性の本質というものに触れることが可能となる。

 この情動という複雑系を描くのが小池さんは本当に上手い。ほれぼれするほどで、私などにはとても太刀打ちできないのだが、負け惜しみとして言うなら、やはりそこには女性という精密な肉体を持たされた者の利点が多分に反映されているのではないかと考えている。

 たとえば『恋』という作品で提示されているような、四人の男女を巡る込み入った愛憎関係はあのアクロバティックな筆力がなければとても小説化できるものではないだろう。憎しみに裏打ちされぬ愛などは一時的な感情の明滅に過ぎず、そのような恋愛を描くのは、黒という色を抜いて絵を描くようなものだが、一方、小池さんという作家はその黒の使い方が絶妙の域に達している。だからこそ、『恋』をはじめとした多彩な愛憎劇をあれほどリアルに作り上げることができるのだと思う。

 そんな恋愛小説の名手である小池さんが、近年は、徐々に恋愛を介在させない男女関係の世界へと領域を広げているように見える。

 実父の人生を半ば借りながら、自分を捨てた父親の晩年に寄り添う長女の姿を追った二〇一二年刊行の『沈黙のひと』にはこれまでのような恋愛関係は出てこない。主人公は、かつて母と自分を置き去りにして愛人のもとへと奔(はし)り、いまは病気によって言語能力を失ってしまった父親の人生を辿ることで、自身の人生と父親の人生とをじわじわと重ね合わせていく。そしてその途上で、たとえ血が通っていたとしても別個の生き物であるはずの父と娘の垣根は次第に取り払われ、二人の過ごした別々な時間もまた神秘的な混ざり合い方をし始めるのだ。

『沈黙のひと』は、中年を過ぎた独身女性の人生を物語りながら、彼女の自由と孤独がいまは亡き父親との関わりによって深い意味を獲得していく過程をしっかりと描き切っている。そうした点で、男女の恋愛を主題としてきたこれまでの小池作品をさらに凌駕するであろう文学的達成を見ていると思われる。

『沈黙のひと』に続いて書かれた本書『死の島』もまた恋愛を持ち込まない男女関係を取り上げた小説だ。

 末期の腎臓がんを患う六十九歳の元編集者と、彼の小説講座に通う二十六歳の女性とのあいだに恋愛は成立しない。だが、ここにおいてもその老いた教師と若い教え子とが個別に抱え込んでいた時間は、物語の進行とともに徐々に神秘的に交わり、最終的には老教師の死をもって彼の時間はいまだ生き続ける彼女の人生へと織り込まれていく気配なのである。

「死者は死ぬまぎわ、あまりまともなことを考えないほうがいい」と自嘲する主人公は、一方において、次のように思う。

「生きものはすべて、いずれは自身の死を受け入れるのだ。そして、流れる時が静かに停止する瞬間を待つことができるのだ……。

 それは生命をもつものに平等に与えられた才能であり、さらにいえば、ひとつの偉大な力であるような気もした。」

 そして、彼は自分を慕う若い教え子に向けて、自らの手で止めた「自分の中を長々と流れ続けてきた時間」を差し出すのである。

文春文庫
死の島
小池真理子

定価:880円(税込)発売日:2021年03月09日

文春文庫
沈黙のひと
小池真理子

定価:770円(税込)発売日:2015年05月08日

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