本書は二〇一三年から二年半にわたり月刊誌『GOLD』で連載したのち、『バブルノタシナミ』というタイトルで書籍化したエッセイ集の文庫版である。すでに単行本で読んだのに、「タイトルが違うから騙された」と怒っている方もおられるかと思うが、ごめんなさい。恐縮しながらお久しぶりです、こんにちは。初めての読者もこんにちは。よくぞお買い上げくださいまして、まことにありがとうございました。
冒頭にも触れたとおり、このエッセイを書き始めた頃は、長い不景気からの脱却の兆(きざ)しがかすかに見え、世の中が浮き足立つ……まではいかないものの、なんとなくお金の巡(まわ)りがよくなりそうな気配を感じていたかに思われる。でも、今になってみればそれはほんのいっときのこと。まさかこんな事態に陥ろうとは誰も想像していなかったはずである。景気の良し悪し以前に、この新しい感染症のせいで、今まで当然と思っていたことが当然ではなくなり、目に見えない恐怖に襲われて、しかもそれがほんの一部で起きた悲劇ではなく、世界中の人々が巻き込まれるはめとなった。
いったい人類はどうなっちゃうの?
日々、時間に追われ、原稿の締め切りに苛(さいな)まれ、ノルマと責任の狭間で怯えていた私が、驚愕混乱しながらも、やたらと暇になった。外へ出る時間が極端に減り、かわりに毎朝、毎昼、毎晩の献立をひねり出し、ひたすらまな板と向き合う日常が訪れる。行動経路が激変し、思考の向きもペースも変わった。
我々のようなもの書きにとっては幸いなことに家にいてこなせる仕事が多かったので、外出中心の仕事に就(つ)いている人や、あるいは接客を主としている商売の人々に比べれば、その変化の度合いとダメージはさほど大きくなかったかもしれない。しかし確実に変わったのは、考える時間が増えたことである。
あくせくしなくなった。考えても結論の出ない懸案は、「ま、とりあえず寝て、明日考えることにしよう」と諦めて床につく。突き詰めれば暗い気持にならないわけではない。しかし、自分一人の力でどうにもならないこの不測の事態を、どうにかしようともがいても限度がある。ならば順応する手立てを模索するほうがいい。
そんな気持になっている頃、文庫化のために改めて本書を読み直して驚いた。
まあ、なんと自由に動き回っていたことか。ついでに文句とケチ自慢に溢れている。しかし思えば私のやっていることは、当時からほとんど変わりがないではないか。相変わらずセルフカットを続け、だからこの蟄居(ちっきょ)生活期間中も頭髪問題についてはさして不便を覚えないし、豪華な買い物をすると落ち込む性格ゆえ、ショッピングに出かけられないストレスも溜まらない。家時間が増えた分、ゆっくり部屋の掃除や片付けが進んだかというと、そういうことはないけれど、でも風呂嫌いにしては、お風呂に入る回数が増えた。だから偉いと褒めてもらいたいわけではなく、ただ一つだけ、気づいたことはある。
あのバブルの時代、幸か不幸かその恩恵を受けなかった私は、この鬱々(うつうつ)としたコロナの時代になっても……、もちろん感染しない、感染させないための緊張の度合いは尋常でないが、とりあえずビビってばかりいないで、できないことはさっさと諦めて、できることの中にささやかな笑いを見つけるほうが得だと思ったのである。
モノと情報に囲まれて、「欲しい」と思えば即座に手に入る時代を回顧するのもいいけれど、もしかすると本当の幸せは、目に見えない不安の陰にひっそり隠れているのかもしれない。
この本同様、しばらく年月を経て、今の時代を振り返ったとき、気づくことは多いだろう。「コロナに振り回されていた時代」があったこと、ひどい時代だったと眉を顰(ひそ)めつつ、でもいいこともなかったわけではない。そんなふうに落ち着いてしみじみと振り返ることができる日を待ちたい。そしてその頃にはきっと新しい幸せの価値が生まれているにちがいない。
本書をまとめるにあたり、この不自由な状況下でたくさんの人にお世話になりました。文庫担当の北村恭子さん、愛らしい表紙絵を描いてくださった上楽藍さん、見事なデザインで本全体をまとめてくださった大久保明子さんに心から感謝申し上げます。
そしてここまでお付き合いくださった読者の皆様、ありがとうございました。
二〇二一年 春を待つ昼下がりに
阿川佐和子