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言葉そのものを愛おしむ吐息

言葉そのものを愛おしむ吐息

文:鴻巣 友季子 (翻訳家)

『自転車泥棒』(呉 明益)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

『自転車泥棒』(呉 明益)

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 父親と失われた自転車というモチーフは、作者の実体験から来ているという。メタフィクショナルな半自伝小説と言えるが、作中には「ぼく」の語り以外にも、多彩なフォームの文章が盛りこまれてくる。前述の「銀輪部隊」や、ビルマ方面軍のことは、原住民族のツォウ語と日本語が混ざりあい、「山肌と風のように、あるいは樹木と寄生植物のように寄り添い、もはや分かつことができない」という混合言語(からの翻訳文)で語られる。それから、アッバスのミャンマーでのサバイバル記や、美しい蝶と蝶の貼り絵にまつわる小説の断片、はたまたある動物園飼育員の娘から送られた日本語の手紙なども挿入される。

 技法として非常に興味深いのが、章と章の間に「ノート」と題してはさまれる自転車の博物誌だ。台湾の自転車史の黎明には、資生堂の創始者福原家が関わっている。この「ノート」に、自転車産業の発展、販路拡大、人気デザインやブランドの移り変わりなどが記され、その自転車小史だけで、台湾の戦争をふくむ歴史や社会状況が如実に語られることになるのだ。

 幕間に自転車史をはさみ世界観を語らせるというこの手法は、ウクライナ系イギリス人作家マリーナ・レヴィツカの『おっぱいとトラクター』なども想起させられた。こちらの小説では、若い妻を迎えたウクライナ人の父が調子づいて「ウクライナ語版トラクター小史」と題する大真面目な論文を書き、これが章間にはさまれていく。一台の農業トラクターの発明がソ連にコルホーズを誕生させ、英国で自動車に革命を起こし、武器を生み、米国における株価大暴落と世界恐慌まで引き起こした(⁉)のがわかる仕組みだ。

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 呉明益の文学には、外国のさまざまな作家作品の影響が見られるが、『自転車泥棒』というタイトルからも察せられるように、イタリアのヴィットリオ・デ・シーカ監督の名画「自転車泥棒」には、ずいぶん傾倒したようだ。あるいは、ダミアン・ハーストなどの西洋現代美術についてもさりげなく考察されている。

 呉さん本人から聞いた話では、一九七〇年代前半生まれの彼ら世代がいちばん触れている文学は欧米のものだという。その影響は考え方のみならず、言葉自体にもおよび、呉さんたちの書く中国語は欧米の語彙や文法の影響を強く受けている。上の世代の作家からは「中国語らしくない」と言われることもあるとか。わたしはそれを聞いて、アメリカ文学を読みこんできた村上春樹の書く文章が「翻訳調で日本語らしくない」と、言われつづけてきたことを思いだした。

 実際、台湾語ではなく中国語で書く時点で、「翻訳」している感覚があると、呉さんは言った。それでも中国語で書かざるを得ない事情がある。そのことに対する思いを彼は声高に語らなかったが、自らの小説言語について話す言葉のなかには繊細な考察と感慨が鏤められていた。その小説世界と言語には、当然ながら、台湾と中国と日本の歴史と文化が複雑に入り混じり、その混交が刻印されているのだ。それは本作の序盤のこんなくだりにも表れているだろう。

 

 いつごろからか忘れたが、異言語を操る人に出会ったら必ず、「自転車」をなんと言うか訊くようにしていた〈中略〉

 自分が育った環境においても、自転車という単語から地域的属性を見出すことができる。台湾で今「脚踏車」という単語が指すものを、もし「自転車」と言ったなら、それは戦前台湾の日本語教育を受けた人だろう。「鐵馬」や「孔明車」と言うなら、その人の母語は台湾語ということになる。「単車」や「自行車」という単語を口にすれば、おそらく中国南部からやってきた人たちだろう。もっとも今は、それぞれ交じり合って、明確な区別はなくなってきている。

 

 原住民族の作家が中国語で書いた文章には、失われゆく民族の言語のスタイルがいまも残っているという。たとえば、と呉さんは言って、拓拔斯・塔瑪匹瑪(Topas・Tamapima)という布農(ブヌン)族の作家が書いた作品では、「少し待った」という場合、「牛がおしっこする時間ほど待った」と表現するということを笑いながら教えてくれた。

 そうして各々の民族の言語がもつ響きの独特の美しさと優雅さについてひとしきり語ると、彼はほうっと息をついた。それは、悲嘆のため息ではなく、あくまで言葉そのものを愛おしむ吐息であった。

文春文庫
自転車泥棒
呉明益 天野健太郎

定価:1,155円(税込)発売日:2021年09月01日

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