本の話

読者と作家を結ぶリボンのようなウェブメディア

キーワードで探す 閉じる
note創作大賞2023「別冊文藝春秋賞」受賞作 冒頭試し読み!

note創作大賞2023「別冊文藝春秋賞」受賞作 冒頭試し読み!

秋谷 りんこ

秋谷りんこ「ナースの卯月に視えるもの」第1話

出典 : #WEB別冊文藝春秋
ジャンル : #小説

 note主催の日本最大級の投稿コンテスト「創作大賞2023」で「別冊文藝春秋賞」を射止めた「ナースの卯月に視えるもの」(秋谷りんこ)。
 本作は、2024年5月に文春文庫より刊行が決定しました! 
 WEB別冊文藝春秋では、受賞作を改稿した第1話、第2話をお届けします。
 審査員・新川帆立さんも絶賛の〝泣けるミステリー〟をお楽しみください。

1 深い眠りについたとしても

 夜の長期療養型病棟は、静かだ。四十床あるこの病棟は、ほとんどいつも満床だというのに。深夜二時、私は見回りをするためにナースステーションを出て、白衣の上に羽織ったカーディガンの前を合わせる。東京の桜が満開になったとニュースで見たけれど、廊下はまだひんやりしている。一緒に夜勤に入っている先輩のとうさんは休憩に行った。
 足音に気を付けながら個室の冷たいドアハンドルに触れる。ゆっくり引き戸を開けると、シュコーシュコーと人工呼吸器の音だけが響いていた。室内は暖かい。懐中電灯で患者の腹部をそっと照らす。音にあわせて腹部が上下する。呼吸器に近寄って、設定の値がずれていないことを確認する。患者の喉へつながるチューブも絡んだりしているところはなく、異常はなし。気管切開のカニューレ、喉と呼吸器をつなぐ部品に付けられたガーゼが汚れているから、ベッドサイドにあるゴム手袋を装着して交換する。ゴミを常設の袋に捨て、点滴の残量と滴下を確認し、刺入部を観察する。最後に室内をぐるっと照らして完了だ。ドアの横にあるアルコールで手を消毒してから、静かに廊下へ出る。夜勤の看護師の仕事は、確認の連続だ。
 ここあお総合病院は、横浜市の郊外にある、このあたりでは一番大きな病院だ。入院病棟と外来があり、救命救急センターも設置されているし、手術も行う。訪問看護ステーションが併設されていて、地域との連携もしっかりしている。横浜駅から電車で三十分くらいと立地も悪くないうえ、周囲には自然も多い。
 私が勤めている長期療養型病棟は、急性期を脱してからの療養に特化した病棟だ。在宅に向けてリハビリをしている人もいるが、病棟で亡くなる患者も多い。死亡退院率、つまり病棟で亡くなる患者が、一般的な病棟では八%程度なのに対し、ここは四十%と言われている。前向きにリハビリに取り組める状況にある人ばかりではない分、悟ったような、諦めたような気持ちで過ごす患者も少なくない。帰りたくても、病状や家庭の事情で帰れない人も多い。見守る家族にも、いろんな方がいる。
 そんな病棟だからこそ、なるべく心地よい環境で過ごしていただきたい。朝になったら換気をして、春の気持ちいい風を部屋に取り込もう。
 次に見回りをするのは男性の四人部屋で、意識のない患者ばかりだ。意識がなければ、自分で自分の体を清潔に保つことはできない。患者の体やベッドの周囲をきれいにしておくことも大切な看護の仕事だ。それでも、人間が生活しているから、やはり少し臭うことはある。そもそも男性部屋と女性部屋では臭いが違う。生物学的な違いなのだろう。男性部屋は少し汗臭く、女性部屋はどことなく生臭い。人間の体臭は人によって違うのに、集まるとなんとなく男性と女性で分けられる気がするから不思議だ。
 ドアから入って左手前はおおおかさとるさんのベッドだ。五十歳の男性で、もともとは庭木職人だった。黒々とした角刈りと凜々しい眉毛が、目を閉じていても意志の強そうな印象を与える。頰のあたりにいくつもシミがあるのは、長年屋外の仕事に携わった証だろう。
 大岡さんは、重症低血糖症のあとに意識が戻らず、長期療養型病棟に転棟してきた。私はベッドの足側に立って呼吸の確認のために腹部を照らす。そのとき、喉まで出かかった悲鳴をなんとか飲み込んだ。とっさに足を一歩引いてしまう。そこに見えたのは、ベッドの柵を握っている小さな白い手。大岡さんの顔を照らさないように気を付けながら、手の持ち主にそっと光を当てる。ベッドサイドに、十歳くらいの女の子が立っていた。
 あどけないかわいらしい子で、黒いサラサラの髪を二つに結っている。長袖の白いTシャツに、淡いピンク色のスカート。足元は、靴もスリッパも履いておらず、靴下だけだ。柵をぎゅっと握りながら、大岡さんのほうに顔を向けている。色白のほっぺたが柔らかそうだ。
 私は、気持ちを落ち着けるために一つ大きく息を吐いた。夜中の病棟に子供がいるはずがない。夜勤の間は、最低でも一時間に一回は見回りをするけれど、さっきの見回りではどこにもいなかった。そしてよく見ると、薄ら透けている。何度てもやっぱり慣れない。そこにいるのは、本物の女の子ではなく、大岡さんの「思い残し」なのだ。
 私はあるときから、もうすぐ亡くなる患者が思い残していることが視えるようになった。これは一種の能力なのだろうか。そこにいるはずのない人、あるはずのないものを視てしまう。それは私にしか視えていないらしい。あたかもそこにいるかのように視えるのだけれど、触れたり交流したりはできない。私が一方的に視ているだけで、「思い残し」は私を認識していないのだろう。患者の思い残したものが、立体的な絵となってそこに映し出されているような状態だ。
 そして、私がそれを視ると、少しあとにその患者は亡くなる。どの程度の期間で亡くなるのか決まった法則はないようだが、私が「思い残し」を解消することで、患者は思い残すことを一つ減らしてから天国へ行ける、と思っている。
 ほかの部屋のすべての見回りを終えてから、もう一度大岡さんのベッドサイドへ行ってみる。女の子はやっぱりそこにいた。立ち止まってゆっくり眺めてみる。女の子は、寂しそうな目をしている。この子はいったい、誰なのだろう。今どこで、何をしているのだろう。
 ナースステーションへ戻り、中央に置かれた大きな円卓に座って、タブレットで大岡さんのカルテを確認する。

 大岡 悟 五十歳 男性
【現病歴】
 マンションの庭木のせんてい中に脚立から転落。マンションの住人が発見し、一一九番通報。救急車到着時、JCSⅢ―300。DMの持病あり。搬送時のBS28。骨折なし。左手に軽度の擦過傷。重症低血糖後のこんめいが続いている。四月四日、救急病棟より長期療養型病棟へ転棟。
【既往歴】
 糖尿病(血糖降下薬内服あり)

 JCSはジャパン・コーマ・スケールの略で、意識レベルを表す評価基準だ。Ⅰ―0は意識が清明な状態。そこから数字が大きくなるほどに意識レベルは低下していく。大岡さんはⅢ―300だから、JCSの中で一番大きな数字だ。つまりは、痛みにも反応しないほどじゆうとくな意識障害に当てはまる。BSとは血糖値のことで、空腹時の正常値が70~100と言われており、70未満でふらつきや疲労感などが現れて、50を切るとけいれんやこんすいなどの症状がでる。大岡さんの血糖値28は、死に至る可能性のあるとんでもなく危険な状態だったのだ。
 休憩へ行っていた透子さんが戻ってきた。
づき、休憩ありがとう。なんかあった?」
 透子さんに報告すべきこと、つまり看護師の仕事として報告することは何もなかった。
「特にないです。三〇三号室の呼吸器のガーゼ、交換しました」
「ありがとう。最近ちょっと痰が多いよね。あとで吸引しておくわ。……ん? 大岡さん、なんか気になるの?」
 透子さんが大岡さんのカルテをのぞいて言う。私は「思い残し」が視えることを職場の人に言っていない。
「ああ、低血糖って怖いなって思いまして」
「そうね。侮っちゃだめよねえ」
「搬送時、BS28ってめっちゃ怖いですよね」
「やばいよね。血糖降下薬飲んだあと、お昼ごはん食べなかったのかね」
 血糖値の上がりすぎを防ぐために、糖尿病の患者にはインスリンの自己注射や薬が必要だ。大岡さんは内服で調整していたようだが、内服したらすぐに何か食べないと、今度は血糖値が下がりすぎてしまう。
「マンションの木の剪定中に倒れたんですよね」
「らしいよ。前に面会にいらした職場の人に聞いたんだけど、すごく仕事熱心な人だったんだって。職人気質っていうの? 真面目で几帳面。だから、剪定中に脚立から落ちるなんて、大岡さんに限って、って感じだったんだって。搬送時から完全に昏迷状態でしょう? 低血糖時用のブドウ糖、持っていなかったのかな」
「どうなんでしょうね」
 カルテを改めて眺める。独身で家族はいない。仕事一筋の職人が、思い残している女の子とは、いったい誰なんだろうか。
 透子さんは一つ大きく伸びをして、茶色く染めた長い髪を結い直し、くるりと丸めてネットに入れシニヨンにした。仮眠をしていたはずだけれど、アイメイクもきれいに整っている。
「それにしても、この病棟は本当に静かだねえ」
 かんばら透子さんは去年オペ室から異動してきた七年目の先輩だ。まったく畑違いの科に来たことになる。明るい茶色の髪色も、オペ室時代の名残だろう。オペ室ではほとんどの患者は意識がない。手術前に、説明のために患者に会うこともたまにはあるようだが、基本的には全身麻酔で眠っている患者を相手にしている。だから、髪色の制限が緩めのところが多いのだ。そのかわり、清潔にはどの科よりも注意が必要だから、アクセサリーや爪の長さなど、厳しい部分は厳しい。透子さんのアイメイクがばっちりなのも、オペ室はいつもマスクをしている科だから目元だけは気合を入れる、と聞いたことがあった。長期療養はナチュラルメイクの看護師が多いから、科による違いは興味深い。
「まだ、慣れませんか?」
「うーん、だいぶ慣れたけど、夜勤やるとあまりに静かで、逆に不安になるよ」
 たしかにこの病棟は静かだ。それは、良くも悪くも患者に大きな変化がないから。
「オペ室のときはさ、常にアラームとか機器の音がしてて、みんな走り回ってたよ。器械出しのナースに怒る先生もいたし、夜勤だと余計にみんな殺気立ってて、さつばつとしてた。それに比べたら、ここはほんと静かだわ」
「走ることなんて、ほとんどないですからね。走ると患者さんを驚かせちゃいます」
「そうだよねえ」
 怒号が飛んでも、走り回ってでも、目の前の患者の手術を成功させるということに全神経を注ぐオペ室と、長い目で少しでも安楽に過ごしてもらうことを考える長期療養型病棟では、時間の流れ方が違うのだろう。オペは長くても十数時間。一般病棟の入院の平均は二週間。ここ長期療養型病棟は、三ヵ月から六ヵ月が平均で、患者によってはもっと長い間入院している。私はそんな病棟で働き始めて、今年で五年目だ。
「じゃ、見回りしてくるわ」
 透子さんはもう一度伸びをしてから、懐中電灯を手にした。
 各々、自分の部屋持ちの見回りをして、看護記録をつける。もうすぐ午前三時。そろそろ私の休憩時間だ。夜勤の仮眠休憩は、だいたい一時間半くらいと決まっている。
「卯月の部屋持ちで何かやっておくことある?」
「いや、特にないですね。点滴の滴下確認だけ、お願いします」
「了解。じゃ、いってらっしゃい」
「はい。よろしくお願いします」
 私は医療用PHSを透子さんに渡し、ナースステーションを出た。
 休憩室へ行き、春雨ヌードルで夜食を済ませ、簡易ベッドで横になる。すっと眠りに落ちたと思ったら、スマートフォンのアラームが鳴った。仮眠はいつも一瞬に感じる。カーテンを開けると、春のかすんだ空が少しずつ白み始めている。朝の四時半。切りそろえたボブの髪をとかし、耳にかけてサイドをヘアピンで留める。「よし」と小さく声に出す。また今日も、当たり前みたいな顔をして一日が始まる。
 夜勤の朝は忙しい。病棟の起床時間、六時になったら病室のカーテンを開けて、部屋が冷えない程度に窓を少しだけ開ける。ほとんどの患者は自分で洗顔ができないから、蒸しタオルで顔を拭く。点滴の交換、血圧や体温などのバイタルサインの測定、食前食後の与薬、血糖値の測定、TFと呼ばれるけいかん栄養の管理、バタバタとしているうちに、日勤の看護師たちが出勤し始める。八時になれば引き継ぎが始まり、無事に交代だ。たくさんの課題に追われるなか、大岡さんのベッドサイドにときどき立ち止まって「思い残し」を眺める。心細そうな目をしている女の子は、実際ここにいるわけではない。でも、靴下のまま冷たい床に立ちっぱなしで、寒そうに見えてかわいそうに思えた。
 今日の日勤は、新人のもとあずさとそのプリセプターのあさくらゆいだ。新人看護師は、最初の三ヵ月、プリセプターと呼ばれる教育係の看護師にぴったりとくっついて、指導を受けながら独り立ちを目指す。看護師の新人教育にはプリセプター制度が導入されている病院が多い。新人教育を通じてプリセプター自身の成長を促す仕組みにもなっているから、三年目から五年目の看護師に任されることが多い。ちなみに、浅桜は三年目だ。
 本木は看護記録を見ながら熱心にメモをとっている。浅桜はプリセプターの経験が初めてで緊張しているのか、少し不安げな様子で本木に話しかけている。八時になって引き継ぎが始まると、本木は背筋をピンと伸ばしハキハキと受け答えをした。新人だからやる気があるのは大切なことだけれど、肩ひじ張りすぎないといいな、と思う。

 

この続きは「WEB別冊文藝春秋」でどうぞ

プレゼント
  • 『赤毛のアン論』松本侑子・著

    ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。

    応募期間 2024/11/20~2024/11/28
    賞品 『赤毛のアン論』松本侑子・著 5名様

    ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。

ページの先頭へ戻る