元看護師が描くお仕事ミステリー。5/8発売『ナースの卯月に視えるもの』第一話全文無料公開!
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
note主催の創作大賞2023で「別冊文藝春秋賞」を受賞した『ナースの卯月に視えるもの』(秋谷りんこ)が5月8日に文春文庫より発売されます! その第一話を全文無料公開!
五年目の看護師・卯月咲笑(うづき・さえ)は、夜勤の見回りをしていると、患者のベッドサイドに見知らぬ女の子を見つけ――。
1 深い眠りについたとしても
夜の長期療養型病棟は、静かだ。四十床あるこの病棟は、ほとんどいつも満床だというのに。深夜二時、私は見回りをするためにナースステーションを出て、白衣の上に羽織ったカーディガンの前を合わせる。東京の桜が満開になったとニュースで見たけれど、廊下はまだひんやりしている。一緒に夜勤に入っている先輩の透子さんは休憩に行った。
足音に気を付けながら個室の冷たいドアハンドルに触れる。ゆっくり引き戸を開けると、シュコーシュコーと人工呼吸器の音だけが響いていた。室内は暖かい。懐中電灯で患者の腹部をそっと照らす。音にあわせて腹部が上下する。呼吸器に近寄って、設定の値がずれていないことを確認する。患者の喉へつながるチューブも絡んだりしているところはなく、異常はなし。気管切開のカニューレ、喉と呼吸器をつなぐ部品に付けられたガーゼが汚れているから、ベッドサイドにあるゴム手袋を装着して交換する。ゴミを常設の袋に捨て、点滴の残量と滴下を確認し、刺入部を観察する。最後に室内をぐるっと照らして完了だ。ドアの横にあるアルコールで手を消毒してから、静かに廊下へ出る。夜勤の看護師の仕事は、確認の連続だ。
ここ青葉総合病院は、横浜市の郊外にある、このあたりでは一番大きな病院だ。入院病棟と外来があり、救命救急センターも設置されているし、手術も行う。訪問看護ステーションが併設されていて、地域との連携もしっかりしている。横浜駅から電車で三十分くらいと立地も悪くないうえ、周囲には自然も多い。
私が勤めている長期療養型病棟は、急性期を脱してからの療養に特化した病棟だ。在宅に向けてリハビリをしている人もいるが、病棟で亡くなる患者も多い。死亡退院率、つまり病棟で亡くなる患者が、一般的な病棟では八%程度なのに対し、ここは四十%と言われている。前向きにリハビリに取り組める状況にある人ばかりではない分、悟ったような、諦めたような気持ちで過ごす患者も少なくない。帰りたくても、病状や家庭の事情で帰れない人も多い。見守る家族にも、いろんな方がいる。
そんな病棟だからこそ、なるべく心地よい環境で過ごしていただきたい。朝になったら換気をして、春の気持ちいい風を部屋に取り込もう。
次に見回りをするのは男性の四人部屋で、意識のない患者ばかりだ。意識がなければ、自分で自分の体を清潔に保つことはできない。患者の体やベッドの周囲をきれいにしておくことも大切な看護の仕事だ。それでも、人間が生活しているから、やはり少し臭うことはある。そもそも男性部屋と女性部屋では臭いが違う。生物学的な違いなのだろう。男性部屋は少し汗臭く、女性部屋はどことなく生臭い。人間の体臭は人によって違うのに、集まるとなんとなく男性と女性で分けられる気がするから不思議だ。
ドアから入って左手前は大岡悟さんのベッドだ。五十歳の男性で、もともとは庭木職人だった。黒々とした角刈りと凜々しい眉毛が、目を閉じていても意志の強そうな印象を与える。頬のあたりにいくつもシミがあるのは、長年屋外の仕事に携わった証だろう。
大岡さんは、重症低血糖症のあとに意識が戻らず、長期療養型病棟に転棟してきた。私はベッドの足側に立って呼吸の確認のために腹部を照らす。そのとき、喉まで出かかった悲鳴をなんとか飲み込んだ。とっさに足を一歩引いてしまう。そこに見えたのは、ベッドの柵を握っている小さな白い手。大岡さんの顔を照らさないように気を付けながら、手の持ち主にそっと光を当てる。ベッドサイドに、十歳くらいの女の子が立っていた。
あどけないかわいらしい子で、黒いサラサラの髪を二つに結っている。長袖の白いTシャツに、淡いピンク色のスカート。足元は、靴もスリッパも履いておらず、靴下だけだ。柵をぎゅっと握りながら、大岡さんのほうに顔を向けている。色白のほっぺたが柔らかそうだ。
私は、気持ちを落ち着けるために一つ大きく息を吐いた。夜中の病棟に子供がいるはずがない。夜勤の間は、最低でも一時間に一回は見回りをするけれど、さっきの見回りではどこにもいなかった。そしてよく見ると、うっすら透けている。何度視てもやっぱり慣れない。そこにいるのは、本物の女の子ではなく、大岡さんの「思い残し」なのだ。
私はあるときから、患者が「思い残していること」が視えるようになった。これは一種の能力なのだろうか。そこにいるはずのない人、あるはずのないものを視てしまう。それは私にしか視えていないらしい。あたかもそこにいるかのように視えるのだけれど、触れたり交流したりはできない。私が一方的に視ているだけで、「思い残し」は私を認識していないのだろう。患者の思い残したもの、心に引っかかっているものが、立体的な絵となってそこに映し出されているような状態だ。
そして「思い残し」は、どうやら患者が死を意識したときに現れるらしい。私が「思い残し」を解消すれば、患者は思い残すことを一つ減らしてより安らかに闘病できる、と思っている。
ほかの部屋のすべての見回りを終えてから、もう一度大岡さんのベッドサイドへ行ってみる。女の子はやっぱりそこにいた。立ち止まってゆっくり眺めてみる。寂しそうな目をしている。この子はいったい、誰なのだろう。今どこで、何をしているのだろう。
ナースステーションへ戻り、中央に置かれた大きな円卓に座って、タブレットで大岡さんのカルテを確認する。
大岡 悟 五十歳 男性
【現病歴】
マンションの庭木の剪定中に脚立から転落。マンションの住人が発見し、一一九番通報。救急車到着時、JCSIII‐300。DMの持病あり。搬送時のBS28。骨折なし。左手に軽度の擦過傷。重症低血糖後の昏迷が続いている。四月四日、救急病棟より長期療養型病棟へ転棟。
【既往歴】
糖尿病(血糖降下薬内服あり)
JCSはジャパン・コーマ・スケールの略で、意識レベルを表す評価基準だ。I‐0は意識が清明な状態。そこから数字が大きくなるほどに意識レベルは低下していく。大岡さんはIII‐300だから、JCSの中で一番大きな数字だ。つまりは、痛みにも反応しないほど重篤な意識障害に当てはまる。BSとは血糖値のことで、空腹時の正常値が70~100と言われており、70未満でふらつきや疲労感などが現れて、50を切るとけいれんや昏睡などの症状がでる。大岡さんの血糖値28は、死に至る可能性のあるとんでもなく危険な状態だったのだ。
休憩へ行っていた透子さんが戻ってきた。
「卯月、休憩ありがとう。なんかあった?」
透子さんに報告すべきこと、つまり看護師の仕事として報告することは何もなかった。
「特にないです。三〇三号室の呼吸器のガーゼ、交換しました」
「ありがとう。最近ちょっと痰が多いよね。あとで吸引しておくわ。……ん? 大岡さん、なんか気になるの?」
透子さんが大岡さんのカルテをのぞいて言う。私は「思い残し」が視えることを職場の人に言っていない。
「ああ、低血糖って怖いなって思いまして」
「そうね。侮っちゃだめよねえ」
「搬送時、BS28ってめっちゃ怖いですよね」
「やばいよね。血糖降下薬飲んだあと、お昼ごはん食べなかったのかね」
血糖値の上がりすぎを防ぐために、糖尿病の患者にはインスリンの自己注射や薬が必要だ。大岡さんは内服で調整していたようだが、内服したらすぐに何か食べないと、今度は血糖値が下がりすぎてしまう。
「マンションの木の剪定中に倒れたんですよね」
「らしいよ。前に面会にいらした職場の人に聞いたんだけど、すごく仕事熱心な人だったんだって。職人気質っていうの? 真面目で几帳面。だから、剪定中に脚立から落ちるなんて、大岡さんに限って、って感じだったんだって。搬送時から完全に昏迷状態でしょう? 低血糖時用のブドウ糖、持っていなかったのかな」
「どうなんでしょうね」
カルテを改めて眺める。独身で家族はいない。仕事一筋の職人が、思い残している女の子とは、いったい誰なんだろうか。
透子さんは一つ大きく伸びをして、茶色く染めた長い髪を結い直し、くるりと丸めてネットに入れシニヨンにした。仮眠をしていたはずだけれど、アイメイクもきれいに整っている。
「それにしても、この病棟は本当に静かだねえ」
神原透子さんは去年オペ室から異動してきた七年目の先輩だ。まったく畑違いの科に来たことになる。明るい茶色の髪色も、オペ室時代の名残だろう。オペ室ではほとんどの患者には意識がない。手術前に、説明のために患者に会うこともたまにはあるようだが、基本的には全身麻酔で眠っている患者を相手にしている。だから、髪色の制限が緩めのところが多いのだ。そのかわり、清潔にはどの科よりも注意が必要だから、アクセサリーや爪の長さなど、厳しい部分は厳しい。透子さんのアイメイクがばっちりなのも、オペ室はいつもマスクをしている科だから目元だけは気合を入れる、と聞いたことがあった。長期療養はナチュラルメイクの看護師が多いから、科による違いは興味深い。
「まだ、慣れませんか?」
「うーん、だいぶ慣れたけど、夜勤やるとあまりに静かで、逆に不安になるよ」
たしかにこの病棟は静かだ。それは、良くも悪くも患者に大きな変化がないから。
「オペ室のときはさ、常にアラームとか機器の音がしてて、みんな走り回ってたよ。器械出しのナースに怒る先生もいたし、夜勤だと余計にみんな殺気立ってて、殺伐としてた。それに比べたら、ここはほんと静かだわ」
「走ることなんて、ほとんどないですからね。走ると患者さんを驚かせちゃいます」
「そうだよねえ」
怒号が飛んでも、走り回ってでも、目の前の患者の手術を成功させるということに全神経を注ぐオペ室と、長い目で少しでも安楽に過ごしてもらうことを考える長期療養型病棟では、時間の流れ方が違うのだろう。オペは長くても十数時間。一般病棟の入院の平均は二週間。ここ長期療養型病棟は、三ヵ月から六ヵ月が平均で、患者によってはもっと長い間入院している。私はそんな病棟で働き始めて、今年で五年目だ。
「じゃ、見回りしてくるわ」
透子さんはもう一度伸びをしてから、懐中電灯を手にした。
各々、自分の部屋持ちの見回りをして、看護記録をつける。もうすぐ午前三時。そろそろ私の休憩時間だ。夜勤の仮眠休憩は、だいたい一時間半くらいと決まっている。
「卯月の部屋持ちで何かやっておくことある?」
「いや、特にないですね。点滴の滴下確認だけ、お願いします」
「了解。じゃ、いってらっしゃい」
「はい。よろしくお願いします」
私は医療用PHSを透子さんに渡し、ナースステーションを出た。
休憩室へ行き、春雨ヌードルで夜食を済ませ、簡易ベッドで横になる。すっと眠りに落ちたと思ったら、スマートフォンのアラームが鳴った。仮眠はいつも一瞬に感じる。カーテンを開けると、春の霞んだ空が少しずつ白み始めている。朝の四時半。切りそろえたボブの髪をとかし、耳にかけてサイドをヘアピンで留める。「よし」と小さく声に出す。また今日も、当たり前みたいな顔をして一日が始まる。
夜勤の朝は忙しい。病棟の起床時間、六時になったら病室のカーテンを開けて、部屋が冷えない程度に窓を少しだけ開ける。ほとんどの患者は自分で洗顔ができないから、蒸しタオルで顔を拭く。点滴の交換、血圧や体温などのバイタルサインの測定、食前食後の与薬、血糖値の測定、TFと呼ばれる経管栄養の管理、バタバタとしているうちに、日勤の看護師たちが出勤し始める。八時になれば引き継ぎが始まり、無事に交代だ。たくさんの課題に追われるなか、大岡さんのベッドサイドにときどき立ち止まって「思い残し」を眺める。心細そうな目をしている女の子は、実際ここにいるわけではない。でも、靴下のまま冷たい床に立ちっぱなしで、寒そうに見えてかわいそうに思えた。
今日の日勤には、新人の本木あずさとそのプリセプターの浅桜唯がいる。新人看護師は、最初の三ヵ月、プリセプターと呼ばれる教育係の看護師にぴったりとくっついて、指導を受けながら独り立ちを目指す。看護師の新人教育にはプリセプター制度が導入されている病院がほとんどだ。新人教育を通じてプリセプター自身の成長を促す仕組みにもなっているから、三年目から五年目の看護師に任されることが多い。ちなみに、浅桜は三年目だ。
本木は看護記録を見ながら熱心にメモをとっている。浅桜はプリセプターの経験が初めてで緊張しているのか、少し不安気な様子で本木に話しかけている。八時になって引き継ぎが始まると、本木は背筋をピンと伸ばしハキハキと受け答えをしていた。新人だからやる気があるのは大切なことだけれど、肩ひじ張りすぎないといいな、と思う。
夜勤明けは、眠気よりも脳の活気のほうが勝っていることが多い。一番眠いのは朝の四時から五時頃で、それを過ぎてしまうと、逆に脳が興奮してくるのだ。おそらく、本来ならば眠っているべき時間に活動しているから、自律神経のバランスがおかしくなるのだろうと思う。新人の頃、先輩たちから「夜勤明けのショッピングには気を付けて」と言われたけれど、今ならその気持ちがよくわかる。変なテンションで何でも買ってしまいたくなるのだ。妙に強気になってしまう。早く帰って休んだほうがいいのにどこかへ行きたくなるのも、夜勤明けのおかしな行動の一つだ。
「卯月、お疲れさん。朝マック行かない?」
夜勤明けは、食欲もおかしい。私は、大好きなあのテロンとしたホットケーキを想像する。甘いホットケーキとしょっぱいハッシュポテトの組み合わせは最高だ。朝マックは十時半までで、今はまだ九時。残業のなかった夜勤にだけ許される嬉しいご褒美。
「行きます~」
即答しながら、透子さんと一緒に更衣室に向かって歩く。
「一晩平和で良かったね」
「はい。本当に」
ナースステーションを出るまでは決して口に出してはいけない言葉を透子さんが言う。勤務中に「今日は平和だ」と口に出すと必ず何か起こると言われているのは、おそらくこの病院だけじゃないはずだ。看護師界隈では都市伝説のように語り継がれている。だから、勤務中は決して「なんか今日平和だね」なんて口にしない。本当に何事もなく無事に勤務を終え、ナースステーションを出てから初めて「平和で良かった」と穏やかな勤務への感謝を噛み締めるのだ。
更衣室に着くと、まだ夜勤明けの看護師は少なかった。残業しているのかもしれない。私は何事もなく日勤に引き継ぎができて良かったと思いながらも、大岡さんの「思い残し」について考えていた。
「職人がお昼を食べるのも忘れて脚立から落ちる原因?」
マックに着いて、透子さんがホットコーヒーを啜りながら言う。
「はい。職人気質だったんですよね。真面目で几帳面。それなのに、薬を飲んだあと食事をとらずに脚立に登るでしょうか。Oさんが飲んでいたのは即効性のある薬だったから、食直前に飲むタイプだったはずです。ブドウ糖も飲まなかったみたいだし……」
ナースステーションを出たら、患者の名前は出してはいけない。看護師には守秘義務があるからだ。ましてや外食中に話していいことではない。私は、まわりに聞こえないように声を抑えて、透子さんと会話する。
「うーん。木の剪定を急いでいたとか?」
「そんなに急ぐ剪定なんてありますかね」
「じゃあ、何かほかのことに気をとられていたとか?」
「ほかのこと……」
「例えば、薬を飲んで、お昼ごはんを食べようとしたときに、猫がベランダから落ちそうになっていた、とか?」
透子さんは「ちょっと無理があるか」とつぶやいてから「ああ、足だるい」と黒いスキニージーンズの上からふくらはぎをもんだ。夜勤は十六時から翌朝九時までの長時間労働だ。足はむくむし、だるくなる。
私は大岡さんのことを考えながら、温かいホットケーキにシロップをたっぷりかけた。しっとりした生地にバターとシロップが染みていく。一口食べると、疲れた体に糖分が沁みわたる。朝マックは夜勤後に食べるのが一番美味しいと思う。
「なんかさ、どんなに丁寧に看護をして穏やかに過ごしていただいたとしても、結果的に在宅に戻れなかったり、亡くなったりするのって、どうなんだろうね」
透子さんは、少し真面目な顔で言った。
「どうっていうのは?」
「Oさんは、もう回復の見込みがないわけでしょう。私はずっとオペ室だったから、手術の途中にどんなにバタバタしても、走り回っても、医者に怒鳴られても、患者さんの手術が成功すれば良かったわけ。でも、長期療養にいると、どんな看護を提供したとしても、亡くなる人は亡くなるし、回復しない人も多い。もちろんそれはオペ室も同じなんだけど、オペ室の場合はその途中経過を患者さんもご家族も絶対に見ないからさ。結果に加えて、途中経過の大事な科って難しいなって最近思うんだ」
たしかに、大岡さんはもう目を覚ますことはないだろう。でも、だからこそできることもある、と私は思う。
「根本的なことは変わらないと思いますけど……たしかに、オペ室は治すことを目的としていますからね。長期療養は、完治の見込みのない方ばかりですし……」
「どっちが良くてどっちが悪い、なんてないんだけどね。ただ、全然違うなあ、ってまだ思う」
そう言って透子さんは、ソーセージマフィンに齧りついた。
私は長期療養型病棟でしか働いていないから、ほかの科で働いてきた人と看護観が違ってくるのは当たり前だと思う。
透子さんと別れて、歩いて家に帰る。マックの前の通りの桜は、満開だ。今日は朝から日差しが眩しい。青い空を見上げると、春の風にちらちらと散る花びらが光る。大岡さんもこんなふうに木々を見上げて、きれいだと思っていたのだろうか。私は意識のない大岡さんにしか会ったことがない。自分で完璧に剪定した庭木を見上げて美しいと満足するとき、どんなお顔で笑ったのだろう。お元気だったときは、どんな人だったのだろう。完治する見込みのない患者と接することは、ときどきすごく切ない。
「ただいま」
家に帰って、テレビ台の上に飾ってある写真に話しかける。
アフロみたいなチリチリのパーマを頭のてっぺんでお団子にして、ゆるゆるのTシャツを着た千波の写真。三門千波は同じ看護学部の友達で、働き始めてからすぐに一緒に住み始めたルームメイトだ。血液内科で働いていた看護師だった。
この写真を撮ったときのことはよく覚えている。二人でみなとみらいに遊びに行って、観覧車の中で撮影したものだ。「高くて怖い」という私をからかって、千波はわざとゴンドラを揺らした。「やーめーて!」と怒る私に「ごめん、ごめん」と言って笑いながら向かいに座ったその顔があまりにも優しくて、思わずスマートフォンを向けたのだ。カメラを起動して、シャッターボタンを押す指が震えた。この瞬間を、景色も音も匂いも高いところの恐怖心さえも、何もかも保存しておきたい。世界には私たち二人しかいないのではないかと思った。春の夕暮れで、水色とオレンジの混ざりあったような空の色が忘れられない。
「今日、また『思い残し』を視たよ」
美しい空を背景にした笑顔は何も言わず、ただそこにいてくれる。
「大岡さんがしゃべれれば良かったのにって、ちょっと思っちゃうよ。意識が戻らない人だからこそできる看護はあると思うし、ありのままの姿を尊重することが大事って頭ではわかってるけど、自分の声で伝えたいことが何かあったのかなって思っちゃって……ダメだね、私」
ぼそぼそと言う私に、千波は写真と同じような優しい顔を向けて笑ってくれるだろう。「ダメなんてことないよ。そう思っちゃうときも、あるよ」。きっとそう言って、励ましてくれる。千波はどんなときでも、私を否定しなかった。
「ちょっと寝るね、おやすみ」
写真に声をかけてソファに横になる。シャワーを浴びたい気もしたが、朝マックで食欲が満たされたせいか急激に眠気が襲ってきた。目を閉じると、瞼の裏に観覧車から見たグラデーションの空が浮かんでくる。淡い空気に包まれるような感覚がして、そのまま眠りについた。
目を覚ますと、室内はまだ明るくて、どのくらい寝ていたのかわからなかった。スマートフォンに手を伸ばすと、十五時二十分と表示されている。夜勤明けで何もせずに一日眠ってしまうと損をした気になる。
「ああ、寝すぎたかなあ……」
つぶやきながら体を起こす。目をこすると、落とさずに寝てしまったマスカラの欠片がぼそぼそと指についた。ゆっくり立ち上がって洗面所へ向かう。鏡の中には、夜勤明けの疲れた顔。千波はいつも「咲笑は童顔でいいなあ」と言ってくれたけれど、今目の前にいるのは、マスカラの滲んだ、痩せたカエルみたいな丸顔だ。
服を全部脱いでお風呂場へ行き、オイルのメイク落としで顔をこする。熱いシャワーを頭から浴びて、顔も一緒にすすぐ。お湯はいつもいい匂いがする。温かい湯気で肺を満たすと、ようやく体が目覚めてきた。
大岡さんが転落したときの状況を詳しく知ることができれば、「思い残し」についても少しわかるかもしれない。私はシャンプーをしながら、救急で働いている同期の顔を思い浮かべていた。
「卯月の言ってた患者さんだけど、グレイス港台ってマンションで作業していたみたいだね」
同期の高原良介は、枝豆を口に入れながらおっとりとしゃべる。愛想のいい優しい男だ。私の兄はサンボマスターというバンドが好きなのだけれど、この同期はそのサンボマスターのボーカルに似ているという理由で、私は勝手にサンボと呼んでいる。ちなみに、本人はサンボマスターを知らない。
「グレイス港台って、病院の近くの?」
「そうそう。茶色いレンガっぽい壁のマンションあるじゃん。あそこ」
サンボはビールを飲み干して、店員を呼ぶボタンを押した。日勤だったサンボは、私が大岡さんのことを知りたいと連絡すると、仕事後に会う約束をしてくれたのだ。私は、サンボの好みに合いそうな居酒屋の個室を予約した。
「倒れていたのは、エントランス近くの歩道って書いてあったよ。通報したのは住人で、歩いてマンションに向かっているときに脚立に登っていたOさんを見ていたらしい。そんで、剪定の業者さん来てるんだ~って思いながら歩いていたら、Oさんがよろけて落ちたんだって。だから、慌てて駆け寄って、救急車を呼んだ、と」
「だから、脚立から転落したってはっきりわかったのか」
目撃者がいたわけだ。
「そうそう。で、Oさんはスマホを持ったまま落っこちたらしいよ」
「スマホを持ったまま?」
「うん」
サンボの注文したビールのおかわりが届く。患者の話をしている手前、店員がいる間はすっかり黙るから妙な客だと思われているかもしれない。
「けど、卯月はなんでそんなこと気にすんの」
私はウーロン茶のストローをぐるぐるまわす。氷がほとんど溶けて、薄まったウーロン茶をのぞきながら「なんとなく」とごまかす。サンボにも「思い残し」のことを話したことはない。
「あんまり一人の患者さんに強く肩入れしないほうがいいよ」
サンボが鶏肉のからあげをワシワシ噛みながら言う。
「うん、それはわかってる。ありがとう」
どこの科にいても、個人的に特定の患者に肩入れするのは良くない。冷静に看護ができなくなるし、公私混同してしまうこともあるし、医療に何も良いことがない。看護師はあくまでも医療者として患者と接していなければならないのだ。それでもやっぱり、割り切れないことも多い。それがわかっているから、サンボも忠告してくれたのだろう。
「そういえば、加藤は元気にしてる?」
加藤比香里は私のプリ子だ。つまり私が加藤の教育係、プリセプターだったのだ。プリセプターの下で指導を受ける新人を「プリセプティ」というのだけれど、現場では「プリセプターの子供」という意味で「プリ子」と呼ばれる。加藤は今、救急でサンボと一緒に働いているはずだ。
「加藤ね! 元気だよ。元気すぎるよ。気が強くて、先生たちにも食ってかかるから、頼もしいけどヒヤヒヤするよ」
サンボが苦笑する。拳を強く握って医者に反論する加藤の姿が目に浮かぶようで、笑ってしまう。
「加藤は、もともと救急の希望だったんだろう? それなのに長期療養に配属になったわけで、プリセプターやるの大変だったんじゃない?」
「うん、最初はね。希望と違う科に配属されるだけで、やっぱりちょっとモチベーション下がるじゃん。でも、長期療養には長期療養のいいところがあって、それは今後どこの科に行っても役に立つよってことは、伝えたつもり」
「それは伝わったんじゃないかな。加藤は、救急にきて二年目だけど、患者さんの『疾患』だけじゃなくてちゃんと『人』を見ていると思う。何より患者さんのことを一番に考えて、しっかり寄り添ってる。長期療養で学んだことが活きてると思うよ」
「それなら、良かった」
加藤は自分の・正義・を持っていた。だから、その正義と食い違う人とは、真正面からぶつかった。「自分の信じることが必ずしも正しいとは限らないよ」とたしなめると、「そんなことはわかってます。でも、自分の正しさと相手の正しさをしっかりぶつけ合いたいんです。そうしないと、相手の思いが見えません。ぶつかってみて初めて、相手の正義を私も受け入れられるんです」と言った。
加藤が長期療養にいた一年目。ある個室の患者のベッドサイドに、ポータブルトイレを設置することになった。その患者には片麻痺があり、看護師の介助がなければ車椅子に移乗できない。しかも、麻痺によって便秘になりやすいため下剤を内服しており、トイレが頻回だった。車椅子に乗って行くより部屋に置くほうがいい、という話になったのだ。
そのことに、加藤は強く反対した。
「ナースの手間を減らしたいっていうことですか? それって、本当に患者さんのためになりますか? 車椅子に乗れば離床の時間も増えますし、リハビリにもなります。そもそも、個室とはいえ、お食事をとる部屋にずっとトイレがあるのって、気分悪くないですか?」
加藤の意見は一理あった。しかし、特に人の少ない夜勤帯は、わざわざ車椅子に乗せる時間がないのも事実だった。
「ナースの手間だけじゃないよ。車椅子を使えば、そこからまたトイレにも移乗しなきゃいけないんだから、患者さんだって疲れるでしょう。それに、間に合わなかったら下着も汚れちゃう。夜はお部屋で楽に済ませたいって思うこともあるんだよ」
私は説明した。加藤は、真剣に聞いていた。ほかの看護師もさまざまな意見を出し合い、結局、夕食後から朝食前まで室内にトイレを設置する方向で決まった。看護に完全な正解はない。患者の病状や個別性を考慮し、みんなで話し合って、良いと思われる方法の中から実現可能なものを選んでいく。
このとき、加藤を「一年目のくせに生意気」と思った先輩もいたかもしれない。でも、加藤にとって大切なのは、同僚の評価よりも患者への看護なのだ。
たしかに気の強い子だったな、と思い出す。私は私の正義を、ためらわず誰かにぶつけられるだろうか。サンボがジョッキを傾けてビールを飲み干す。
「ねえ、帰りに、ちょっとだけグレイス港台に寄ってみてもいい?」
サンボは私をちらりと見てから「いいよ」と言った。
グレイス港台は、交通量の少ない道路沿いに建つおしゃれなマンションだ。見上げると七階まであった。各階に十部屋あったとして、全部で七十世帯ぐらいか。茶色いレンガ風の壁はところどころ色が変わっていて、新築ではないらしい。外塀は低いブロックでその上にフェンスが立っている。建物の左端に幅の広い階段が数段あり、その先がエントランスだ。エントランスに向かって右横、フェンスのすぐ内側に、一本の大きな木が立っている。私はエントランスの近くの歩道に立つ。
「この木の剪定だったんだな」
フェンスを越える高さまで大きく成長していて、何という種類の木なのかわからないが、夜風に葉が揺れて涼し気だ。大岡さんは歩道に倒れていたそうだから、このあたりに脚立を置いて作業をしていたに違いない。
「そうかもね。きれいに剪定されている様子だから、大岡さんの事故のあとに別の人が作業したんだね」
「うん」
誰かが事故や病気で倒れても、やらなければならないことがなくなるわけではない。大岡さんが意識を取り戻さずに寝たきりになっていても、木は成長するし、マンションの管理は必要なのだ。どこで誰かがどうなっても、世界は変わらずに動いていく。どこからか飛んできた桜の花びらが、数枚舞って落ちていった。
「歩道のこの辺に脚立を置いたとして……脚立って何メートルくらいだろ」
ブロックに登り、フェンスに手をかけて数歩よじ登ってみる。黒っぽい格子状のフェンスは、ぎりぎり足をひっかけて登ることができた。
「ちょっと卯月、気を付けてよ」
サンボが声をかけてくる。
「うん、大丈夫」
もし「思い残し」につながるヒントがあったら忘れちゃいけないと思ってお酒は飲まなかったから、と心の中で付け足してフェンスをつかむ。一階は歩道より少し高い位置にあるから、フェンスを登らないと中までは見えない。数歩登って、ぐっと首を伸ばしのぞき込む。この位置からだと、一階に並んだ部屋のうち、一番左の部屋しか見えない。大岡さんが見たとしたら、この部屋だろう。だが、カーテンがぴったり閉じられていて、室内の様子は見えない。大岡さんが昼食を食べないほど気にしたことが、見つかるかもしれないと期待していたのに。
「なんかあったか?」
サンボが声をかけてくる。少し粘って窓やその周囲を見たけれど、何の動きもない。
「いや、ないね」と答えて、慎重にフェンスを降りた。
「探偵ごっこはそのくらいにしておきな。俺たちがやらなきゃいけないのは、原因の究明じゃないだろう?」
サンボがもっともなことを言う。
「わかってるよ」
わかっている。私たちがやらなきゃいけないのは、入院している患者の看護であって、「思い残し」の解消ではない。でも、視えてしまったんだもの。解消しないと、気が済まない。諦められる気はしなかった。でも、これ以上サンボに迷惑をかけるわけにはいかない。
「帰ろうか」
私の言葉に、サンボは少しホッとしたような顔をする。二人で涼しい春の夜を歩いた。
家に帰って、千波の写真を眺めながら、私は一つ小さくため息をつく。千波のいない部屋は、とても広く感じる。
病棟の談話室で、車椅子に乗った患者と付き添いのご家族が窓から外を眺めている。天気が良くて、空がきれいな日だ。この季節は病院前の桜がよく見えるから、気分転換になるだろう。
十四時過ぎ、この時間帯は面会者が来始めて、一日の中で一番病棟が賑やかになる。大岡さんはご家族がいないから、面会者はほとんど来ない。ときどき元同僚が顔を見に来ているみたいだけれど、私はまだ会ったことがない。談話室を過ぎて、大岡さんの部屋へ行く。サンボとマンションに行ってから二日が経っていた。
「足の運動しましょうね」
私は声をかけながら、ベッドサイドへ近付く。「思い残し」の女の子がちょうど正面にいる。ぴったり閉じられていたカーテンを思い浮かべる。答えのない疑問が、頭の中にうずまく。
「思い残し」から目をそらし、大岡さんの掛け布団をゆっくりはぐ。ずっと寝たままだと、さまざまな体の機能が衰えていく。寝ているだけで、合併症が増えていくのだ。中でも、深部静脈血栓症は命に関わる恐ろしい合併症だ。エコノミークラス症候群という名前が一般的だろう。その予防のために、患者には弾性ストッキングと言われる着圧靴下を履いていただくことが多い。でも、大岡さんは糖尿病の症状により、これを履くとかえって末梢の循環が悪くなってしまう。だから、他動運動と呼ばれる、他人の手による運動が必要なのだ。
他動運動は特別難しいケアではない。でも、ササッと雑に済ませては充分な運動にならない。丁寧にやらなければ効果が低い。
右手で大岡さんの足首を、左手で膝を持ち、ゆっくり膝を折り曲げるようにしてお腹へ近付ける。伸ばして、また折り曲げる。それをゆっくり繰り返す。長年の庭木の剪定を支えた、職人の足だ。大岡さんが立って、歩いて、踏ん張って、働いてきた足。きっと、前はもっと丈夫だったのだろう。今は、ふくらはぎの筋肉はだいぶ痩せ、色は白く、脛は細くなってきている。でも、この足が今の大岡さんの足なのだ。
「大岡さん、頑張っているでしょう?」
「思い残し」の女の子が、見守ってくれているような気がして、思わず声をかける。やはり反応はない。私が一方的に視えるだけで、何の交流も持てないのだ。
ベッドの反対側に移動し、同じようにもう片方の足も運動させる。すぐ隣に女の子がいる。大岡さんの足を曲げたり伸ばしたりしながら、早くあなたのことも見つけるからね、待っていてね、と心の中で伝える。
目を覚ますと、遮光カーテンの隙間から陽が細く差し込んで、埃がきらきらと光っている。壁にかかった時計に目をやると、十時を過ぎていた。休みの日はつい寝坊をしてしまう。のろのろとベッドから出る。
「俺たちがやらなきゃいけないのは、原因の究明じゃないだろう?」
サンボに言われたことが頭の隅に残っている。わかってるよ、と思いながら、昼間のマンションの様子だけでも見ておこうと思った。
食パンにハムをはさんだ適当な朝食を済ませ、家を出る。今日はぽかぽかと暖かい。グレイス港台までは歩いて二十分くらいだ。自宅アパートの前にある桜の木から、花びらが舞っている。植物と土の匂いと、湿気の混じったような春特有の甘やかな風。
何か少しでもわかるといいのだけれど、と気が急いて、歩くのが速くなる。マンションに着く頃には、すっかり体が温まっていた。今日は一人だし、不審者に思われたら困る。あまり長いことフェンスに登っていられないから、さっと確認して素早く降りた。天気の良い昼間なのに、カーテンがぴったりと閉じられたままだったし、洗濯物も干されていなかった。さあ、どうしようか。私が思い込んでいるだけで、この部屋と大岡さんの「思い残し」の女の子は無関係なのかもしれない。いや、どんな人が住んでいるのかだけでも、調べてみてもいいかもしれない。でも、マンションに入ったら不法侵入になってしまうのだろうか。エントランス前でしばらく悩む。オートロックのないマンションだから、入ろうと思えばすぐに入れそうだ。ベランダの位置から、部屋もわかるだろう。
私は、加藤の「自分の正しさをぶつけたい」という言葉を思い出す。そうだ。まずは自分が正しいと思うことをやる。やってみて、うまくいかなかったり失敗したりしたら、そのときはまた別の正しさを探せばいい。そう言い聞かせ、エントランスの階段を上った。
マンションは直方体の「ようかん型マンション」と呼ばれる作りだ。エントランスホールを過ぎると右手に外廊下が長く続いている。エントランスに一番近い部屋が、例の部屋だ。一〇八号室。表札は出ていない。静かで、室内から人の気配は感じない。家族住まい用のマンションに見えるが、一人暮らしなのだろうか。ほかの部屋の前には、子供用の自転車が置いてあったり、複数の傘が立てかけてあったりするけれど、一〇八号室の前には何もなかった。
廊下の奥の部屋から女性が出てきて歩いてくる。私は、スマートフォンを取り出していじるふりをした。じっと立ち尽くしていてもスマートフォンさえ見ていれば「スマホを見ている人」になれるから便利だ。女性は私のことはまったく気にしない様子でエントランスから出ていった。それ以外に人の動きはない。意を決してマンションの中まで入ってみたけれど、何の収穫もなかった。仕方なく私は来た道を引き返す。空を見上げると、意地が悪いほどによく晴れている。
ほかに予定はなかったから、家に帰るとついダラダラしてしまう。ソースであえるだけのパスタで遅い昼ごはんを済ませ、ハマっているドラマをチェックする。ラブコメで、主人公が恋人の浮気を見つけたところまで見ていた。ソファにだらしなくよりかかって続きを再生する。でも、「思い残し」のことが気になってあまり集中できなかった。
外が薄暗くなってきたので、部屋のカーテンを閉める。そこではたと思いつく。もしかしてこの時間なら、仕事に行っていた住人が帰ってくるかもしれない。
十九時を過ぎた頃、またマンションに来てみた。日が暮れるとぐっと気温が下がる。外はすっかり暗いが、マンションの中は明るい。エントランスホールにあるソファに座って、スマートフォンをいじるふりをしながら時間をつぶした。一時間も経っただろうか。
「あの、何か?」
突然声をかけられて驚いた。管理人室の受付窓から、キリッとした印象の初老の女性が顔をのぞかせている。チェーンのついた細い金縁の眼鏡をして、いぶかし気にこちらを見ている。私は、慌てる気持ちを抑えて何でもない風を装った。
「ああ、知り合いと待ち合わせなんです。少し遅れてるみたいで」
そう言って、私はスマートフォンを軽く持ち上げてみせた。あたかも、今連絡をとっていた、という風に。
「……そうですか」
管理人さんは受付窓から頭をひっこめた。サンボの言葉が頭によみがえる。自分でも何をしているのだろうと思った。こんなことをしても何の意味もないのかもしれない。
そのとき、エントランスから中年の男性が入ってきた。郵便ポストを見ているから、マンションの住人らしい。不審に思われない程度に目をやる。会社員風で、スーツは少しくたびれて見える。薄い頭髪を撫でつけたような髪型で、疲れているのか足取りは重く、表情は冴えない。黒いビジネスバッグとビニールの袋をぶらさげて、廊下を右へ曲がり、一番近い部屋、一〇八号室の鍵を開けて入っていった。あの人が一〇八号室の住人か! 顔は覚えた。ぶらさげていた袋にはKマートと書いてあった。この近所にある小さなスーパーだ。住んでいる人を見られただけでも収穫だ、と少し興奮しながらマンションを出る。夜空に、ぼんやりと半月が浮かんでいた。
翌日もよく晴れている。お昼休み、休憩室に行くと先に休憩に入っていた後輩の山吹奏が、椅子にだらしなく座ってサンドイッチを食べている。
「卯月さん、お先です」
「うん、お疲れ」
私は買ってきたおにぎりとお茶をテーブルに置いて、山吹の隣に腰をおろす。ナースステーションの中では、看護師は基本的に何も食べたり飲んだりできない。衛生的な問題が一番大きいけれど、患者やご家族が見たら不快に思うかもしれないという理由もある。私語もなるべく控えなければならないし、泣いたり爆笑したりすることもできない。だから、ドア一つ隔てて、患者にもご家族にも顔を合わせずに済む休憩室というのは、看護師にとっては仕事中のオアシスみたいな場所だ。
「これ、御子柴さんのご実家からのお土産ですって。みなさんでどうぞって、御子柴さんが置いていきました」
テーブルの上には、長野銘菓と書かれた箱が置いてあり、個包装のお菓子が並んでいる。すでにいくつか減っているので、夜勤明けの誰かが食べたのだろう。
御子柴匠さんは、病棟唯一の男性看護師で、主任をしている。切れ長のクールな目元と薄い唇はどこかミステリアスな雰囲気があり、患者にもご家族にも医療スタッフにも、ファンが多い。独身の頃に大勢のご家族からバレンタインチョコを渡された、という逸話の持ち主だ。そのとき御子柴さんは「ご遠慮させていただきます。申し訳ありません」と丁寧に断り、ホワイトデーには全員に感謝の手紙を書いたそうだ。ナースステーションの入り口に「ご家族さまへ。看護師への差し入れはお断りさせていただきます」と貼り紙がされているのは、御子柴さんのこのエピソードのせいらしい。
病院の看護師は、みんな看護部に所属している。看護部のトップは、看護部長だ。看護部長にはほとんど接する機会がなく、私は、入職式でしか会ったことがない。部長の下、各病棟に師長がいて、看護師にとっては師長が病棟で一番の上司にあたる。長期療養型病棟の師長は香坂椿さんという女性で、控えめに言っても、いるだけでその場に緊張感が漂う。特に、何か良くないことを告げるときの、ちょっとねちっとした高い声を聞くとみんなの背中がびくっとする。患者さんやご家族にはもちろん優しいし、対応も丁寧だ。でも、ぴったりとひっつめられた長い髪と、吊り上がりぎみに描かれた眉と、同じく少し吊り上がった目は、向かい合うだけで緊張する。
師長の下に二人の主任がいて、その下に私たちみたいなヒラの看護師がいる。主任は、私たちと師長の間を緩衝する役割も担っているのだ。特に御子柴主任は、大きなビーズクッション並みの包容力だと思う。
浅桜と本木が休憩室に入ってくる。本木は「はい!」と返事をしている。浅桜に何か教えてもらったのだろう。
「浅桜さんと本木ちゃんも、お菓子どうぞ」
山吹が自分のお土産のように勧める。新人の本木を「本木ちゃん」と呼ぶのは、山吹だけだ。山吹は二年目だから、初めて自分に後輩ができて嬉しいと前に話していた。
「ありがとう」
「ありがとうございます」
浅桜がサラダと総菜パンをテーブルに置く。本木もバッグの中からお昼を取り出している。
「これ、めっちゃ美味しいとこのやつですよ」
山吹が私に顔を向けて言う。彼女はスイーツに詳しい。
「そうなの? 楽しみ」
私はお菓子を一つとってお茶の脇に置いた。
そこで山吹が、はあーと大げさなため息をつく。
「何、どうしたの」
「あの研修医、マジで使えないんですけど」
山吹は大福のように白くふっくらした頬を余計にふくらまし、この春から一緒に働いている研修医の名前をあげた。
「あははは。たしかに、あの人ちょっとやばいよね」
私も同意する。医者にもいろんな人がいる。患者のために熱心に治療をする先生がほとんどだけれど、中には何か勘違いしている先生もいる。
「自分は使えないくせにナースのこと召使いみたいに扱いやがって、マジでむかつきましたよ」
山吹はサンドイッチを食べ終えて、長野銘菓に手を伸ばす。
「すっごい天狗っていうか、俺さまはお医者さまだ、みたいな態度とる医者、本当にいるんですね」
山吹の文句は終わらない。でも、ここでならいいのだ。休憩室でなら、許される。看護師だけが集まり、束の間「白衣の天使」という役割から解放される場所なのだ。それをナースステーションや病室には持ち込まない。ここで吐き出すからこそ、持ち込まずにいられる。医者への文句くらい、吐き出したい。医師たちには医局という場所があるが、医局には偉い先生もいたりするから、先生たちは先生たちで大変だろうな、と思うこともある。
「あ、これほんとに美味しい。まわりサックサクで、中はめっちゃクリーミー」
山吹がお菓子を食べながら嬉しそうな声をだす。向かいに座る浅桜がお菓子を二つとって、一つを本木に渡してあげている。
「すみません、ありがとうございます」
本木は、礼儀正しい。仕事ぶりも優等生然としている。休憩室にいるときくらい、もう少しくだけても大丈夫だよ、と言ってあげたくなる。でも、今はプリセプターの浅桜が一緒にいる。あまり口出しはせず、浅桜と本木の関係性を尊重しようと思い、私は黙っておにぎりを頬張った。
山吹は二つ目のお菓子を食べながらスマートフォンをいじっている。ナースステーションには私物の持ち込みはできないから、休憩室に来ないとスマートフォンも見られない。
「卯月さん、これ見てくださいよ。めっちゃウケる」
山吹が見せてくれた動画は、海外のドッキリ動画だった。
男性が歩道に停められた自転車にまたがる。その瞬間、サドルがビヨン! とバネのように反発して、男性は驚き派手なリアクションをとりながら道に転げた。いわゆる「やらせ」なのかもしれないけれど、繰り返し流れるその動画はたしかにバカバカしくておもしろい。
「何これ」
一緒になって笑う。山吹はツボに入ったのか、ヒイヒイ言いながら笑っている。こういう時間を過ごすと、また午後も頑張ろうと思える。看護師の仕事はきついときもあるけれど、仲間がいるのは心強い。大岡さんの「思い残し」は今日もベッドサイドにいた。私は午後も「思い残し」を視ながら仕事をするのだ。
長野銘菓は仕事終わりのおやつにしようと思って、バッグに入れた。
仕事のあと、十九時過ぎにグレイス港台の近くのKマートに行ってみる。一〇八号室の男性は、この店の袋を下げていた。あの日の帰宅は二十時頃だったから、この時間ならもしかしたら会えるかもしれない。偶然を願いながら、まず店内を一周して、いないことを確認してから店の前に立つ。ときどきスマートフォンを耳にあてて、話すふりをする。誰かと待ち合わせをしているように見えるだろうか。じっと立っているだけだから、体が少し冷えてきた。足踏みをして、夜空を見上げる。
三十分ほど待ったときだった。会社員風の中年男性が、この間と同じように疲れた様子で近付いてくる。それは、一〇八号室の男性に間違いなかった。「思い残し」にどう関係しているのかわからないけれど、とりあえずはこの人のことをもう少し知りたい。そう思って、男性のあとをつけた。店に入ると、ビールを数本とチーズかまぼこをかごに入れる。晩酌だろうか。そのあと、パンのコーナーへ行って、メロンパンとチーズ蒸しパンも入れた。甘いものも好きらしい。そのあと、リンゴジュースとオレンジジュースを、お菓子コーナーでチョコレートやグミなども特に吟味せずに放り込んでいく。その様子を見て、私の中に小さな違和感が生まれる。一人暮らしの中年男性にしては、何かちぐはぐな印象を受けた。でも、ジュースやお菓子が好きな中年男性だってたくさんいるだろう。もしかしたら一人暮らしじゃなくて、家族の分かもしれない。でも、私が見ていた限り、あの部屋にはこの男性以外出入りする人はいなかった。部屋の前もベランダも、殺風景だった。
男性が会計を終えて店を出ていく。さりげなくあとをつける。男性は私の尾行には気付かず、グレイス港台に入っていったので、私も少し緊張しながら素知らぬ顔をしてマンションに入る。男性は鍵を開けて一〇八号室に入っていった。
さて、ここからどうすればいいだろう。中年の男性が、一般的なイメージより多めにお菓子や菓子パンを買ったというだけで、何もおかしいことはしていない。でも、微かな違和感はぬぐえない。腕を組んでしばらくマンションの廊下で佇んだ。今日も帰るしかないのか、と歯噛みしながらエントランスホールのソファに座る。
そのとき、バイクのような音が聞こえたと思ったら、黒い大きなリュックを背負った若い男性がエントランスから入ってきた。食事の宅配のリュックだ。早足で私の前を通り過ぎ、一〇八号室の前に立ったようだ。私は聞き耳を立てる。配達員がチャイムを鳴らす。
「デリバリーキングです~」
「はーい」
男性の声で返事がする。少ししてドアが開いた。配達員の男性が、リュックの中から食事を取り出している。
「えっと、ヒレカツ定食と、お子様ランチですね」
思わずソファから立ち上がる。今、お子様ランチと聞こえた。やっぱり、あの部屋には男性以外に誰かいるのだ。言いようのない焦燥感に駆られる。義務感に近いかもしれない。そして、あの「思い残し」の女の子の顔が浮かぶ。寂しそうな視線を思い出す。もしあの女の子がここにいるとしたら、大岡さんが思い残す理由が何かあるはずだ。確かめなければならない。
私は駆け足でエントランスを出て、ベランダのほうへまわった。フェンスの下から手を入れて、小石を数個つかむ。フェンスを登り、一〇八号室のベランダに一個投げ入れる。コツンと硬い音を立てて、小石がベランダ内に落ちる。
やましいことがあったとしても、音の出どころは気になるだろう。一瞬でもカーテンを開けてくれれば、そのときに部屋の中を確認できるかもしれない。もう一個投げ入れる。コツンと硬い音がする。動きはない。握る小石が冷たい。もう一個投げる。室外機にでも当たったのか、カーンと金属の大きな音がした。次の瞬間、ぴったり閉じられていたカーテンがすっと開いた。中年男性が顔をのぞかせる。私は木の陰でバレないように体をすくませながらも、カーテンの隙間から見える室内をのぞいた。そして、ひっと小さく悲鳴をあげる。カーテンの隙間から見えたのは、床にぺたんと座った女の子の姿だった。片方の足首にロープが巻いてあり、その先に大きなダンベルが結わいてある。足枷にしているのだ。長い髪を二つに結って、白いTシャツにピンクのスカートを穿いている。それは、大岡さんの「思い残し」の女の子そのものだった。
いた……見つけた! 「思い残し」の女の子の身に何か起きている。あの男性の娘だとしても、あれは虐待だ。私は勢いよくフェンスから飛び降りて、エントランスホールに走った。管理人室にはまだ灯りがついている。
「すみません、管理人さん!」
大きな声を出すと、受付窓のレースのカーテンが開き、金縁眼鏡の女性が顔を出した。
「なんですか? あら、あなたこの前の」
先日私をいぶかし気に見ていた管理人さんは、私のことを覚えているようだった。
「あの、一〇八号室の男の人って一人暮らしですか?」
気が急いて、口調が速くなる。
「はい?」
「娘さんがいますか?」
「そんな、住人のプライバシー教えられるわけないじゃない」
「そうなんですけど、えっと、今あの部屋で子供が、女の子が足枷をつけられているのを見たんです」
焦って、言葉が舌先でもつれる。管理人さんは、ぎゅっと眉間に皺を寄せて私の言葉の真意を確認しているようだった。
「本当です。ベランダ側の窓から見えました。白いTシャツにピンクのスカートの、髪を二つに結った女の子です。足首にロープが巻かれて、ダンベルみたいなものにつながれていました!」
管理人さんは私をじろりと見てから、すぐ横にあったファイルのようなものを開いた。住人の情報が書いてあるのかもしれない。
「女の子、と言ったかしら」
「はい。十歳くらいの女の子です」
「足首にロープは本当?」
「はっきり見ました!」
信じてもらえるように訴えるしかない。管理人さんは、腕を組み目を瞑って考え込んでいる。そう簡単には協力してもらえないか。でももう一押ししてみよう、と口を開きかけたところで、管理人さんはパッと目を開け、スタスタと受付窓の横のドアから出てきた。華奢で背の低い女性だった。背筋がピンとしていて姿勢がいい。
「一〇八って言ったわね?」
「はい。そうです」
管理人さんは、早足で一〇八号室の前へ行き、インターホンを押した。少し間があって「はい」と男性の声がする。
「こんばんは。管理人の梶ですけど、遅い時間にすみません。ちょっとお部屋の中を拝見することってできますか?」
「え! 今ですか? なんでですか?」
「申し訳ないんですけど、ペットを飼っていらっしゃるんじゃないかって住人から投書が来たんです。飼っていないならいないで、確認させていただいて、管理会社に電話しないといけないのよ。ごめんなさいね、私も仕事だから」
管理人さんは、さらっと嘘をついた。機転の利く人だと驚いた。
「はあ……ペットは飼っていませんよ。ちょっと散らかっているんで、今日はお断りしたいんですけど……」
管理人さんは「……わかりました。失礼します」と意外にもあっさり引き下がった。
「どうするんですか」
私は管理人さんに詰め寄る。
「念のため、警察を呼ぶわ。受け答えが少し動揺している様子だった。一人暮らしなんだから、部屋を見せたって構わないはず。とりあえず今は、あなたのことを信じるわ。何事もなければ、それでいいんだから」
そう言って、管理人さんはポケットからスマートフォンを取り出した。
いつもより早く目が覚めた。眠りが浅かった気がする。警察の人と話す機会なんてないから、緊張して疲れたのかもしれない。出勤まで時間に余裕があるから、ゆっくり朝ごはんを食べる。お湯を注げばできるカボチャのポタージュをスプーンでかき混ぜながら、焼きたてのトーストを頬張った。
出勤するとすぐに、大岡さんのベッドサイドへ行き、静かに話しかける。
「大岡さん、グレイス港台の女の子、無事に保護されましたよ」
管理人さんが警察を呼んで、事情を説明した。私も話を聞かれた。警察は念のためと男性の室内を捜索し、女の子を発見した。女の子は、男性の子供ではなく、連れ去った子だったそうだ。男性は現行犯で逮捕された。
「失くしたピアスを捜していたら偶然窓から室内が見えた」という私の嘘はまるで疑われず、行方不明だった女の子の居場所を突き止めたことで警察に感謝された。
でも、あの子を見つけたのは私じゃない。大岡さんだったのだ。
供述によると、男性は両親が他界してからずっと一人暮らしをしており、家族が欲しかったらしい。それで、マンションの近くで見かけた女の子を「こんな娘がいたなら」という思いから、声をかけて家に連れて帰ってしまった。だから、食事や飲み物はしっかり与えていたし、イタズラもしていなかったという。しかし、自分の私欲のために人を、ましてや立場の弱い子供を傷つけるなんてことは、決して許されることではない。
同じように家族がおらず、一人で闘病している大岡さんが、家族が欲しいと願い一線を越えてしまった男の犯罪をあばいた。何かしらの因果を感じてしまうのは、私に「思い残し」が視えるからだろうか。
「大岡さん、あの女の子の声を聞いたんですか? 薬を飲んですぐ、食事をとらないほど慌てて脚立に登って確認したってことは、助けて、とかそういった声を聞いたのでしょうか。それで、足枷をされている女の子の姿を見た。警察を呼ばなければと慌ててスマートフォンを取り出したけれど、血糖値が下がり始めてしまって、意識を失った。そうだったんでしょうか」
助けてあげなければ、と大岡さんが強く思った結果、目に焼き付いた女の子の心細そうな姿がきっと「思い残し」として現れたのだ。
返事のない大岡さんに語りかける。あなたが自分の体よりも優先しようとした女の子、助かりましたよ。「思い残し」、解消しましたよ。意識がなくなっても聴覚は最後まで残ると言われている。どうか私の声が聞こえていますように、と願いながら大岡さんの手をそっと握った。
「卯月さーん、点滴のダブルチェックお願いできますか?」
山吹の声にはっと我に返る。
「はーい」
返事をして、私はベッドサイドを離れた。
点滴のチェックを終えて大岡さんの部屋に戻ると、女の子はいなくなっていた。窓の外には、陽光を反射した桜吹雪がきらきらと舞っている。
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