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須藤古都離の頭の中に響く声——『ゴリラ裁判の日』に続いて『無限の月』が生まれた理由

須藤古都離の頭の中に響く声——『ゴリラ裁判の日』に続いて『無限の月』が生まれた理由

須藤 古都離

出典 : #WEB別冊文藝春秋

デビュー作が大きな話題を呼んだ頃、須藤さんの心を占めていたのは美しき「西湖」のことだった。そして、聴こえてきたのは――。


まだ存在しない人たちの声 

 小説を書くにあたって、有名な小説家の創作論を参考にしようと思ったことがある。そうして出会った英語圏の小説家たちの言葉の中に多く出て来る単語がvoiceだった。小説を書く上でvoiceが非常に重要だという。しかしそれを登場人物の声だと言う作家もいれば、作家自身の声だと言う者もいて、具体的なようでいて、どことなく曖昧な概念のような気がしてならない。創作論においてvoiceがなんなのか、まだよく分からない。
ゴリラ裁判の日』に続く二作目となる『無限の月』を書いている途中で、頭の中に響いてくる声があった。他の登場人物とは全く異なる声。最初はこれこそがvoiceなのかと思っていたが、物語を書き進めていくと特定の人物がうるさいだけだと気が付いた。「もう少し静かにしてくれませんか、ちゃんと聞こえてますから」と言いたくなるほどだ。ちなみに二作目の舞台は中国である。

「中国人がうるさいって思ってる日本人は多いけど、それって事実無根のステレオタイプだよ」と中国人の妻に言われたことがある。「中国人はうるさくない、田舎に住んでる中国人がうるさいだけ」と彼女は続けた。
 それこそ事実無根のステレオタイプなイメージじゃないのかと僕が言い返すと、そうじゃないとはんばくする。
「田舎の人は広い場所で農業をするでしょ? 仕事しながら遠くの人と話すから、声が大きくなるんだよ」と適当なことを言う。実際、妻も義父母もとても静かな人だし、妻の友達にもうるさい人はいなかった。
 僕と妻が出会ったのはお互いに大学生の時。日本に留学していた彼女は、先に卒業すると帰国した。就活の末に内定が決まると、僕は彼女と結婚するために中国に向かった。結婚は紙切れ一枚だとよく言うが、国際結婚に関してはそうではない。準備する書類が多く、結婚前には外務省や大使館に行く必要があり、その頃の手帳を見返すと、まるで自分が重要人物のように感じられる。
 様々な手続きをなんとかクリアし、役所で結婚を済ませ、親族と食事をする段階になって、まさかの事態が発生した。親戚のおばさんの声が、ビックリするほど大きいのだ。うるさいというレベルではない。同じ部屋の中にいるのに怒鳴られているように感じるほどだ。
 おばさんの家に招かれた時に、部屋に入るなり座るようにすすめてくれたのだが、僕の名を呼びながら「ズオ! ズオ!」と凄まじい剣幕で、まるで脅されているようだった。なぜそんなに声が大きいのかと訊ねたら「田舎の人間は広い場所で農業をするから~」と言われて笑うしかなかった。田舎の人間がうるさいというのは、どうやら自他ともに認める事実らしい。
 そんなおばさんだが、親戚一同に振る舞うために大量に作ってくれた料理はとにかく美味しかった。料理が美味しいだけでなく、中華テーブルで食事するというのも、また面白い体験で、中央が回転する大きな円形のテーブルにぎっしりと、色とりどりの料理が盛り付けられた皿が並ぶのは壮観である。お腹いっぱいに食べた後でみんなが箸を置いてからも、テーブルを少し回してあげると、「まだこんな料理があったのか」とでもいうように誰かがまた食べ始めるのが楽しい。
 食事の後で散歩に出かける習慣も気に入った。夕食の後はテレビを観て、そのまま寝るのが一般的な日本人の夜の過ごし方のような気がするが、中国人は食事の後で散歩をしたり軽い運動をしたりする。地域で差はあるかもしれないが、特に公園は夜でも人が多い。公園に備え付けてある運動器具でトレーニングする老人たちは、早朝から暗くなるまで、どの時間帯でも見かける。太極拳や謎のダンスを踊る集団もいれば、楽器を演奏する人たちもいて賑やかだ。

 妻の出身地であるこうしゆうは上海に近い都会であり、アリババの本社があることでも知られる。景勝地としての西せいが有名で、地元民の憩いの場でもあるそこには、休日ともなれば多くの観光客が押し寄せる。間違えて休日に行ってしまうと、肝心の湖が見えないほどの人込みになるので注意が必要だ。
 初めて中国を訪れた時に見た西湖の豊かさは、僕の心に大きな印象を残した。その美しさを描きたくて『無限の月』の舞台とした。西湖の美しさに魅せられたのは中国の偉大な詩人たちだけでなく、たにざきじゆんいちろうも『西湖の月』という短編をしたためている。そこに並ぼうというつもりはないが、もし僕の小説を通して、誰か一人でも西湖に興味を持ってくれれば幸いである。小説には書ききれなかった―というよりも西湖には見どころが多すぎるくらいなのだ―が、「西湖十景」で検索して頂ければ、素敵な画像がいくらでも見つかるはずだ。
 ところでこの西湖十景だが、そのうちの一つであるらいほうとうを嫌っていたのが、かの有名なじんである。この塔が崩れたと聞いて『墳』に収められている雑文の中で「ざまあ見やがれ」と書いたほどである。そもそも倒れる前の雷峰塔が美しくなかった、塔にまつわる伝説である白蛇を封印した僧を憎んでいた、塔が崩壊する理由となった民衆の浅ましい行為が気に入らなかった、と魯迅が雷峰塔を憎々しく語る理由はいろいろあるようだ。
 一九二四年に雷峰塔が崩壊したのは、この塔のれんが迷信の対象になってしまったからだ。人々は塔を訪れては、それがまるで御守りであるかのように煉瓦を持ち帰った。その結果として塔は崩壊したのだ。魯迅はその行為を「奴隷的な破壊」であると指摘した。たとえ国が豊かになって塔が再建されようとも、人の精神が変わらなければ国は変わらないだろうと憂慮した。ちなみにこの塔は二〇〇二年に再建された。
 そんな魯迅だったが、彼の銅像もこの雷峰塔と同じく西湖にある公園内に建てられた。魯迅の銅像はもともと公園の人目につく場所に設置される予定だったが、「人が大勢訪れて砂ぼこりが立つような場所に置かれては魯迅先生がかわいそうだ。先生に砂ぼこりを食べさせるつもりか!」と住民から非難の声があがったそうで、人通りが少ない、落ち着いた場所に移動させられたとのこと。僕は実際に魯迅像を見ていないので、どの場所にあるのか把握していない。魯迅の視線の先に、彼が猛烈に嫌った雷峰塔がないことを祈るばかりである。

 どこの国の人はどうだ、というようなステレオタイプなイメージをもとに小説を書きたくはない。それでも、実際に会った人や経験からインスピレーションを受けて書くのは楽しい。
 次に書く三作目の小説は一九六九年のアメリカが舞台だ。登場人物たちがどんな生活をしているのか、どんな映画を観てどんな音楽を聴いているのか、そんなことを想像すると、なかなか面白い。何といっても、この人たちは六九年以降の世界を知らないのだ。
 僕はクラシックロックが好きなので、当時に戻ってジミ・ヘンドリックスやグレイトフル・デッドを生で聴くことができたらどんなに素晴らしいだろうと想像したことは一度や二度ではない。だが同時に、七〇年代初頭の衝撃は、想像するだけでも恐ろしい。なんといってもジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソンの三人が一年以内に亡くなってしまうのだ。
 これから僕は作家として町を一つ創り上げ、そしてそのすべてを焼き尽くすつもりだ。まだ僕の頭の中にしか存在しないその町の住人たちは、一体どんなドラマを見せてくれるだろうか。僕にもまだ分からないが、きっと面白い物語になるだろう。読者の皆さんに、彼らの声を届けられる日が楽しみだ。

須藤古都離(すどう・ことり)
 1987年、神奈川県生まれ。青山学院大学卒業。2022年「ゴリラ裁判の日」で第64回メフィスト賞を受賞しデビュー。23年7月、第2作『無限の月』刊行。

 

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