2024年5月8日(水)、『ナースの卯月に視えるもの』(秋谷りんこ)が文春文庫より刊行されます。創作大賞2023(note主催)で「別冊文藝春秋賞」を受賞した本作。改稿の過程で、初めて小説を書くことが「怖い」と感じたという秋谷さん。デビュー作刊行に至るまでの軌跡を振り返ります。
看護師をしていた時、患者さんとのコミュニケーションはとても大切なケアの一つだった。声かけ、傾聴、共感。どの医療従事者よりも患者さんと過ごす時間の長い仕事だからこそ、看護師の言葉は、患者さんへの影響が大きい。患者さんから「秋谷さんに励ましてもらったので治療も頑張れた」「『なんでも言ってくださいね』という一言で心が軽くなった」などと言っていただいた時は、自分の伝えたいことがまっすぐ伝わった気がして嬉しかったし、ホッとした。ご家族に「今日はお風呂に入りましたよ」といった細かい報告をすると、「面会以外の様子を知ることができて本当に嬉しかった」とこちらの想像以上に喜んでいただくこともあった。逆に、不安そうな患者さんに「大丈夫ですよ」と声をかけたら、「大丈夫じゃないから入院しているんだ」「年下のくせに生意気になだめようとするな」とお叱りを受けたこともある。そのたびに、私はちゃんと患者さんやご家族のことを一番に考えた言葉を使えていただろうか、と自問した。
たとえば、「うつ病の患者に“頑張れ”は禁句」とよく言われる。たしかに実際に働いていたとき、私はうつ病の患者さんに「頑張れ」と言ったことはなかった。でも「大変だと思いますが、一緒に頑張りましょう」とは言ったことがある。「頑張れ」は相手に努力を強いるものだが、「一緒に頑張りましょう」には「あなたは一人じゃない」「私たちは味方であなたを応援したい」という気持ちが込められていると思ったからだ。似ているようで違う。看護の声かけには、言葉の選択と表現への注意、メッセージへの配慮が必要不可欠だった。
そんな経験もあったからか、『ナースの卯月に視えるもの』で作家デビューが決まり、刊行に向けて改稿を進めているとき、私ははじめて小説を書くことが「怖い」と感じた。相手の状況も立場も何もわからない人に、私の言葉が届く。その言葉は、ちゃんと正しく選択されているだろうか、配慮できているだろうか、悪い影響を与えないだろうか。また、「病気」や「死」がコンテンツとして消費されていると思われないだろうか。不安はいくつもあった。noteで自分が楽しむために小説を書いていたときには、抱いたことのない感情だった。
デビュー作『ナースの卯月に視えるもの』は、「看護師」と「完治しない病気」というテーマを掲げているから、デリケートな内容になることは避けられなかった。「死」や「思い残し」「残された人の気持ち」などを扱う上で、物語やテーマから伝わるメッセージが読む人の誤解を招いたり、誤って解釈される可能性もある。読む方を暗い気持ちにしてしまう小説にはしたくないと思っていたけれど、だからといって「病気」や「死」を明るく楽しいポジティブなものとして書きたいわけではなかった。人が病気に立ち向かうときには苦しいことも多いし、死に直面するのは怖い。看病する家族も大変だ。でも、その中には希望もあった。私はこの小説を通して、その希望のほうに、しっかり光を当てたかった。残された時間を家族と過ごすとき、周囲との何気ない会話で患者さんに笑顔が生まれるとき、たしかにそこにはあたたかく安らいだ空気があった。看護師時代、私はそんな場面に出会うたびに、その和やかな情景をひっそり心に溜めていた。そして仕事が辛くなったとき、自分自身を照らしてくれる灯りにしていた。
看護師の小説を書くと決めたからには、その希望を書きたい。そして、読者の心を少しでもあたたかく照らしたい。そう願いながら、一つ一つの言葉を吟味して書き進めた。
小説は、読んだ人の分だけ解釈があり、響き方はそれぞれ違うだろう。だから、私がどれほど願いをこめようと、届くかどうかはわからない。著者の手を離れてしまえば、小説は読者のものだ。それでも、私の小説が読者の方々の心にあたたかく優しいものをお届けできたらと、強く願っている。
秋谷りんこ(あきや・りんこ)
1980年神奈川県生まれ。横浜市立大学看護短期大学部(現・医学部看護学科)卒業後、看護師として10年以上病棟勤務。退職後、メディアプラットフォーム「note」で小説やエッセイを発表。2023年、「ナースの卯月に視えるもの」がnote主催の「創作大賞2023」で「別冊文藝春秋賞」を受賞。本作がデビュー作となる。
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