〈今のようになりたくなかった……母親業にしがみつく私の危機〉から続く
デビュー作『ウツ婚!! 死にたい私が生き延びるための婚活』で、高校中退→家出→大学入学→中退→精神科→婚活→結婚までの怒涛の日々と婚活how toを綴った石田月美氏。だが、地獄は続く。妻になり、母になっても満たされない、その後のさらなる珍道中を綴った『まだ、うまく眠れない』(文藝春秋)。
精神科医で作家の斎藤環氏と、文筆家で編集者でもある吉川浩満氏という旧知の二人を迎えて、著者の実像、病名を抱えて生きることの長所と短所、昨今の発達障害バブルなどについて語り合った鼎談イベントから、内容を抜粋してお届けします。
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ヤンキーに擬態していた中学の頃
斎藤 月美さんの新著『まだ、うまく眠れない』は、結構ハードな内容も書かれていますが、過度に深刻になり過ぎず、かといって軽さに逃げるようなこともせず、その辺のバランスが素晴らしかったです。ほどほどの深刻さで書かれているところが読みやすさにつながっていますね。拝読すると、月美さんは中学の頃はヤンキーの方にいき、その後ひきこもり、過食、依存症の時期があり、その後、婚活して結婚して、と続く。人生の振幅がかなり大きい。私は専門がひきこもりですが、ひきこもり界隈では、結婚・出産は一種の「上がり」なんですよ。一度ひきこもっていた方は、「自分はまたひきこもってしまうかもしれない」という恐怖に常に怯えている。その恐怖がなくなる一番のきっかけが、就労、結婚、子どもを持つこと。ここでやっと、「自分はもうひきこもらないだろう」と安心できる。ところが、月美さんの場合は上がりのコースに来たにも関わらず完結していない。これは興味深いですね。
吉川 私もとても面白く拝読しました。環さんが「完結していない」とおっしゃいましたが、そこが大きなポイントかなと思います。この本は「私の物語」を語っている。でも、「途中から始まってまだ途中」という感じがある。あえてそうされていますよね。この「完結していない感じ」が、異なる人生を歩んでいる読者にもスッと入ってくる理由なのかなと思いました。また、月美さんは確かにいろんなことを経験なさって、いろんなコミュニティと関わっているけれど、ご自身に対しても、周囲にも、「観光客」的な距離感がある。そこも入り込みやすい理由だと思います。
石田 ありがとうございます。私にはずっとアウェイ感というかどこに行っても居場所がない感じが幼少の頃から常にあります。今回は、経験してきたことを「痛み」を中心に、読んだ人が身体感覚として共鳴するような書き方をしようと思いました。痛みは個人的な体験とも言われますが、痛みについて書かれたものって、痛み自体はわからないけれど、鳥肌が立つとか胸が疼くとか、そういう風に誰かの体を揺さぶると思うんです。
斎藤 なるほど。痛みというのはたしかに共感の難しい感覚かもしれない。でも、あの手この手でしんどさや痛みの感覚が書き込まれているのでそれはかなり伝わっていると思いました。単純・単一でない、いろんな種類の痛みが描かれていますよね。
月美さんの場合、「観光しつつ擬態する」という感じもあったのかなと思います。中学の時のヤンキーへの染まり方は、どのくらい意識的にされているのでしょう。ヤンキーカルチャーは基本的には表層しかないので、模倣できるところはあると思いますけど、実は芯のところに「仲間が大事」とか「親に感謝」とかいった、ある種のエートス、倫理観みたいなものがありますよね。
石田 かなり意識的に擬態していました。私には所在なさからくる痛み、しんどさ、不安や怖れがあり、自分がここにいても良いという感覚さえもたらされるのであれば、何にでも自ら進んで擬態してしまうんです。実はEXILEより小沢健二のファンだったので(笑)、ノリ切れない面もありました。でも、おっしゃる通り表層で良いので、擬態で充分に徒党が組めるカルチャーだと思います。それよりも大事なのは仁義です。仁義さえ欠かなければ、充分に参入は可能だと思います。
斎藤 ああ、じゃあやはり、仁義、その辺のエートスというか、「ダサイことすんな」みたいな部分は守ってたんですね。
綺麗なコップに氷と麦茶を入れて飲む。それが生活であり尊厳
石田 本書の執筆にあたっては、吉川さんの著書『哲学の門前』に出てくる、「君と世界の戦いでは世界に支援せよ」というカフカのアフォリズムについてすごく考えました。前作はまず当事者に届くために書いていたけど、当事者による当事者のための本ではなく、そうではない人たちの方が多い世界の側に立って書くにはどうしたら良いのか。まだこのアフォリズムが理解しきれたとは思いませんが。
吉川 「君」でなく「世界」の側に立つというのはたいへんなことで、そうしない方がよい場合ももちろん多い。たとえば眼前の「生活」の部分。いま自分に危害を加えてくる奴がいる、悪い制度がある。そういった時は、まず自分に味方しなきゃいけない。
だから逆に、執筆する上で月美さんに「君と世界の戦いでは世界に支援せよ」という言葉が響いていたというのは、書くということが月美さんにとっていかに大きなことになっているかということと同義だと思いました。
斎藤 生活ってなんでしょうね。この本で言うとそれこそ「生活」というタイトルの章に出てくる、綺麗なコップに氷と麦茶を入れて飲むこと。飲むだけなら、ペットボトルに口をつけて飲めば良いけど、わざわざコップに入れたお茶を飲むことが生活である、と。すごく正鵠を射ていると思う。昼間は日差しのあるところで過ごすとか、そういうことが生活であって、イコール尊厳でもある。でも定義するとなると、とても難しい。
吉川 尊厳と自尊心、それはすごく大きいと思います。かつてナチの強制収容所では、ある人が髭剃りを決して止めなかった、という話をどこかで読みました。髭を剃るって収容所の生活ではほとんど意味のない行為だし、剃刀だって良い質のものがないだろうに、とにかく意地になって続けた。それがその人の生活の防波堤だったのかなと思いました。一つの尊厳の保ち方ですよね。
石田 本書の帯文を書いてくださった頭木弘樹さんは、何もかも嫌になるとわざと髭を剃らないそうです。「そんなことしたらもっと自分が嫌になりませんか?」と聞いたら、「やさぐれているんです、月美さん。これが私のせめてものグレです」とおっしゃっていて(笑)。
吉川 面白い!
斎藤 グレる、というのはアピールですよね。誰向けのアピールなのでしょうか。
石田 自分自身に対するアピールなのだと思います。自分に対して駄々を捏ねるというか。
斎藤 セルフネグレクトならぬ、セルフグレ、ですね(笑)。自分の意志が入っているというところが違いでしょうね。
石田 「生活」の章では、ほとんどセルフネグレクト状態だった私を友人が救ってくれたことを書きました。でも、私は病気に感謝なんかしていませんし、障害もなければないほうが良かった。今までの人生にたっぷり後悔と反省をしていますし、やり直せるならやり直したい。本を書いて反響をいただいて、変な言い方ですが、胸を張って「病気や障害に感謝なんかしていない。後悔と反省をしながらそのまま生きています」と言えるようになりました。
斎藤 月美さんの本には、語ることや生活を超えた喜び、つまりいい文章を書きたいという欲望や喜びが端々に感じられますが、これはゴールがない。ハッピーな人は文章書けないと思うんですよ。自己肯定感にあふれる人は本を書かないと、私は確信しています(笑)。
吉川 満ち足りていたら本を書く必要性、理由がないですよね(笑)。
“発達障害”という言葉に寄っていってしまうことがある
石田 本日は専門家がいらっしゃっているので、ぜひ伺いたいのですが、昨今の「発達障害バブル」についてはどうお考えですか?
斎藤 発達障害という言葉自体は大事にしたい。たとえば、10年以上も統合失調症と診断されてきた人が実はASD(自閉スペクトラム症。発達障害の一つ)とわかった。ASDは薬はあまり要らないから、薬をやめたら改善したというケースもある。この概念はいろんな人を救っているなと思うだけに、逆に教育現場とか職場では過剰診断/過剰ラベリングが横行している面もあるのが問題です。
吉川 まさにこの数年で、自分が無意識のうちにラベリングやレッテル貼りをしていることをすごく感じるようになりました。職場の悩みを相談された時などに、パッと「発達障害」という言葉が浮かんできてしまったりする。数年前にはそんなことはなかったと思うんですが。
斎藤 月美さんの本の中には、自己診断としてのASDという言葉は出てこないですよね。自分についての理解の補助線として、発達障害という言葉を使おうと思ったことはないですか。
石田 ないです。これ以上、病名はいらないかなって(笑)。昔の私は診断を受け、ある種無敵になりました。不都合はすべて病気や障害のせいにし、他人の振る舞いを見てもラベリングやレッテル貼りをし、自分がさも「知識人」になったような気さえしました。当事者特権のようなものも振り回していたと思います。病名や診断名は自己理解に本当に資すると思いますが、私は病名に飲み込まれていた。当たり前ですが、生きていればすっきり解釈できない出来事の方が多いはず。それなのに、喜怒哀楽まで病名に取られちゃうような感覚がありました。だから、これ以上病名を増やさないようにしています。
斎藤 賢明だと思います。ラベリング効果というのがあって、自分の行動がどんどんそっちに寄っていってしまうことがあるんです。発達障害と診断された人はどんどん空気が読めなくなり、ぎこちない行動パターンになったりする。言葉の負の面ですよね。
ニューロダイバーシティという言葉があるように脳も多様なので、ある人にこういう特性がある、ということを、受容する環境とか社会状況の組み合わせで考えましょうというのが、最近の考え方です。社会と個人の界面で、どうしても適応上の問題があって生活がうまくいかない場合は診断をするし、周りがその特性を受け入れてくれてオールオッケーなら病名を診断する必要はない。私はこれが正しいと思っています。生きづらさの形を見極める時に補助線として使えるかどうか、それで充分です。ですから月美さんが使わなかったのは正解だと思う。変な言い方ですけど、やはりただの当事者じゃないですね(笑)。当事者であることはきっかけでしかなく、文章の人になっていくのだなという誕生の瞬間を見たようで感慨深いです。
(8月10日、下北沢・本屋B&Bにて収録)
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