〈モテてきた私…結婚して子を産んで、年を取っても続く地獄とは〉から続く
デビュー作『ウツ婚!! 死にたい私が生き延びるための婚活』で、高校中退→家出→大学入学→中退→精神科→婚活→結婚までの怒涛の日々と婚活how toを綴った石田月美氏。だが、人生はその後も続く。妻になり、母になっても満たされない、さらなる地獄のはじまりを綴る7月25日発売の『まだ、うまく眠れない』(文藝春秋)から一部抜粋してお届けします。
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美人じゃないのは、努力が足りないのか?
いまや、女性の美醜についての言説は一つしかない。「すべての女性は美しい」。あとは沈黙するのみである。
何故そんな極端なことを言えるのか、我が身を切りながら説明しよう。まず、私は世の中に美人と不美人がいると思っている。既にSNSがざわつき始める頃だ。次に、私は美人だ。もうクソリプが付き著者近影が晒(さら)されるのが目に浮かぶ。そして、私は美人として得をしてきた。炎上必至。読者の方もこの本を破り捨てたくなったと思うが、せっかく買ったのだから最後まで読んでから中古屋に売った方が良い。もう少しお付き合い願いたい。
私が事実だと思っているこれらは、すぐにいくつもの反論が浮かぶだろう。「美人の定義はなんだ」とか「お前ごときは美人ではない」とか「美人にだって苦悩はある」とか。今浮かんだすべての反論が、皆が冒頭の言説に沈黙する理由だ。
ならば何故私は自分の好感度をダダ下がりさせてまでこんなことを言うかというと、残された唯一の言説「すべての女性は美しい」というのがあまりに残酷過ぎるからだ。世の中に美人と不美人がいると思っている私からすれば、「すべての女性は美しい」というのは欺瞞(ぎまん)でしかない。しかも美容業界や意地悪な男性たちにとって都合の良い欺瞞だ。もしも「すべての女性が美しい」のであれば、自分を不美人だと思ってしまうのは端的に言って努力不足ということになる。世の中にはメイクやファッション、仕草、立ち振る舞いに至るまで美しくなる情報に溢れている。美容整形という手だってある。それなのに不美人のままでいるのは自己責任なのだ。もはや自分のことを不美人だと思う、その心が醜いのだと言わんばかりである。一部の意地悪な男性たちも己の差別意識を隠せる。隠蔽(いんぺい)した上で更に不美人を馬鹿に出来る。もうちょっと容姿に気を使えば良いのに、なんて面と向かって言ってくる輩(やから)もいる。美人への終わりなき努力地獄へようこそ。だから私は、「すべての女性は美しい」など残酷な欺瞞だと思う。
咳をしてもブス
先日、新宿で友人とお茶をしていた。その友人は3回目の結婚を控えておりパートナーとも円満だが自分の会社の経営が忙し過ぎて入籍日が決まらないと、私の人生5回分くらいの充実した日々を愚痴っていた。ちなみに、その友人は私より身長が低く2倍くらいの体重があり30倍くらいコミュニケーション能力が高い。そして不美人である。
私は彼女の濃すぎる毎日に圧倒され「私なんかさ、毎日毎日自宅で原稿書いてるだけじゃん? 一週間くらい鏡見ないなんて平気であるし家族以外の人に会ったのだって今日が一ヶ月ぶりだよ。もう自分の美醜とかどうでもよくなるよね」と愚痴った。すると彼女は首を振ったあとハッキリ言ったのだ。「あんたね、それはあんたが美人だから下駄履いてんだよ。あたしだって経営者だからほとんど会社に顔出さないしオンラインで銀行に融資申し込んで納品の手配してずっと部屋着のまま一日終わるよ。でもね、ブスはたった一人でいても、あー自分ブスだなーって思い続けてるの。『咳をしてもブス』。そんな感じ」。私はこの自虐と哀愁のはざまに生まれた自由律俳句に感嘆し、思わず彼女を抱きしめ「それ、書いても良い?」と聞いていた。我ながらサイテーである。
「咳をしてもブス」。すごい。それに比べれば私が美人だから受けてきた、誤解や嫉妬に人間関係のトラブルなんてとるに足らないんじゃないかと思えてくる。もちろん人の苦悩に優劣はないし比べるものではないのだけれど、嗚呼(ああ)咳をしても美人、と悲嘆に暮れたことはない。それだけで相当下駄を履いていると思う。
ただ、得をしてきたからこそちょっとわかることがある。美人であることによる得は大体においてめちゃくちゃ下らないってことだ。若いときは美醜というものが圧倒的なパワーを持っているように思えた。どんなに親から「うちの子って世界一可愛い!」と育てられようと小学生くらいになればなんとなく自分の美醜レベルはわかってきて、それによって周囲から受ける扱いが違うことだってあった。若いときは振り返る後ろもないし立ち止まる余裕もないから美醜は圧倒的なパワーであるかのように錯覚したし、その嵐の中にいるしかなかった。
しかし年齢を重ねると、老けるから美の第一線から退かなければならなくなるということもあるが、それ以上に振り返る後ろがあり現在に立ち止まる余裕が出てくる。そうなると美人であることの得は瑣末(さまつ)で下らなくなってくる。これは若かりし頃の得がたいしたことなかったというのではない。そうではなくて、大人になると美醜なんかよりもっともっと大事なことが増えて、そっちで勝負しなければならなくなるということだ。モデルや女優などの美を職業にしている人々ですら演技の上手さや私服のセンスの良さ、生活の丁寧さなどが求められる時代だ。いわんや、我々をや。
美人=魅力的だと思うやつは阿呆
いい大人になって、いまだ「美人=魅力的」であると思っているやつはただの阿呆だ。だから阿呆の言うことは気にしなくていい。ほとんどの大人は、「あなたはどんな人生を送ってきて、今どんなことをしているか、あなたはどんな人か」を問題にする。大人になってからの方が人生は長く、美人だけでやっていけるほど甘くないし不美人だけで苦悩するほど退屈でもない。人生を歩む上で自分の武器が美人一本槍だとツラい。正直言ってかなりみじめだ。私はそんな思い悩む美人をたくさん見てきた。彼女たちに「美人なんだから良いじゃん」とでも言おうものなら口を揃えて「私より美人なんていくらでもいる」と言う。そして悲しいことにそれも事実なのだ。
大人になって魅力的な人というのは何かがある。仕事だったり人柄だったり考え方、その他諸々。そこにプラスαで美醜が加わる。美醜は職業にでもしない限り、その魅力的な何かにはなり得ない。美醜で勝負するならともかく、多くの人はそんな場所にいない。更に言えば、知り合いの映画監督が「美人って一本の映画に一役だから、そこに似たような美人が殺到するわけでしょ。映画に出たいなら美人の役以外の方がたくさんあるんだから美人にならない方が役者として仕事あるし磨かれるよ」とも言っていた。美醜の現場でもそうであるなら、いわんや。
美人になりたければなれば良いと思う。美容業界は日々その宣伝に勤(いそ)しんでいる。自分を美しいと思えることは日々を明るくする。その通りだろう。若い頃に美醜で受けた差別は大人になってからも暗い影を落とす。そうだと思う。しかし大人になるというのはそんなことで悩んでいられるほど甘くない。「美人なんですね。わかりました。それで?」の世界だ。それに自分の顔を好きでいようがいまいが毎日は続く。好きになりたかったらなれば良いけど、なれない人にすべての女性は美しいんだから好きになれるよう頑張れというのは大きなお世話だ。そんなことより大事なことはいくらでもあるんだから放っておいて欲しい。ちなみに私は自分のことを美人だと思っているが自分の顔が好きじゃない。放っておいて欲しい。
私は言葉を生業(なりわい)にしているので美人だと褒(ほ)められるより文章を褒められた方がずっと嬉しい。魅力的な言葉に出会うたび感嘆し、同時に悔しくもある。でも美人だから良いじゃないですか、なんて何の救いにもならない。美人の方が勝ってますよ、なんて言う阿呆はマジで気にしなくて良い。こっちは美人とかブスとかそれどころじゃないんだ。
「すべての女性は美しい」。どう考えても「咳をしてもブス」の圧勝だ。
【プロフィール】
石田月美(いしだ・つきみ)1983年生まれ、東京育ち。高校を中退して家出少女として暮らし、高卒認定資格を得て大学に入学するも、中退。2014年から「婚活道場!」という婚活セミナーを立ち上げ、精神科のデイケア施設でも講師を務めた。20年、自身の婚活体験とhow toを綴った『ウツ婚!! 死にたい私が生き延びるための婚活』で文筆デビュー、23年に漫画化された。
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