- 2024.11.19
- 書評
ミステリだからこそ描ける“想い”。有栖川有栖の新境地
文:佐々木 敦 (批評家)
『捜査線上の夕映え』(有栖川 有栖)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
本作『捜査線上の夕映え』のいわゆる親本(文庫の元になっている単行本をこう呼ぶ)は二〇二二年一月に刊行された。その前に「別冊文藝春秋」で全四回にわたる連載が為されており、それは有栖川有栖がコロナ禍以降にはじめて行なった長編連載だった。このことは本作の内容にストレートに繋がっている。物語は二〇二〇年八月下旬に始まり、九月半ばに終わる。舞台となる大阪では最初の緊急事態宣言が五月に解除されて以降、感染状況もやや落ち着きを見せており、今となっては悪名高い(?)日本政府のGoToキャンペーンによって国内旅行が推奨されていた時期である(最初の一文が「旅に出ることにした」の本作は一種の「旅ミステリ」でもある)。そしてご承知の通り、単行本刊行時にもまだまだコロナ禍は続いていた。本作はまさしく「コロナ禍の渦中でコロナ禍を描いた」(単行本あとがきより)ミステリなのである。あの世界的な混乱時にひとりのミステリ作家が何を考えていたのか、どんな想いを抱いたのかが、この小説にはさまざまなかたちで反映されている。そればかりではなく、コロナ禍という問題とはまた別の、複数の意味において、本作は有栖川有栖の円熟ぶりと、新たな境地を示した重要な作品だと私は思っている。このことを多少とも明らかにすることで解説としたい。
事件自体は一見地味とも言えるものである。マンションの一室のクロゼットからスーツケースに押し込められた元ホストの男の遺体が見つかる。男はその部屋にひとり暮らしで、凶器は部屋にあった御影石の龍像。スーツケースは男と交際中で遺体の発見者でもある投資家の女が男から借りていたものを返しに来たばかりで、ゆえに彼女が第一の被疑者となる。やがて男のLINEから元コンパニオンのもうひとりの女の存在が浮上する。二人の女は男を介して友人になっていたが、男が二股を画策していた事実が判明し、第二の女も被疑者に加えられる。被害者から借金の返済を迫られていた不動産テックに勤める男が第三の被疑者、更に被害者と第二の女が一緒にいるところを尾行していたKポップアイドルに似た(だが顔の下半分はマスクで隠れている)謎の男が第四の被疑者。第五、第六の被疑者と呼べる者もいるが、問題は事件の起こったマンションの防犯カメラの映像である。第一の女がスーツケースを返しに来た時と連絡が取れない男を心配して再訪し遺体を発見した時に加えて、第二の女も映像に映っていたが、遺体の状態のせいで殺害された時刻の可能性に幅があり、しかもマンションの各フロアには防犯カメラがなく建物への出入りしか確認することが出来ない。こうして単純に見えた事件は次第に難解なパズルの様相を呈してゆく。
コロナ禍で外出もままならない日々に倦み、ひとりで大阪駅まで出てビルの五階から夕映えを見たりしていた小説家の有栖川有栖は、やはりコロナで大学がリモート講義になってから下宿に引きこもっていた英都大学准教授の犯罪社会学者、火村英生が警察からの協力要請を承けたことによって、久々の「フィールドワーク」(と称した犯罪捜査)に赴く。迎えるのは過去作でもお馴染みの大阪府警の面々、船曳警部、鮫山警部補、繁岡刑事、森下刑事、そしてコマチこと高柳真知子刑事ら。捜査と推理の焦点となるのは、防犯カメラの映像と、被疑者たちがそれぞれ主張するアリバイである。ここに「旅」が関わってくる。被疑者の何人かは犯行が可能だった時間には遠方に旅行に行っていたと主張する。そこで火村とアリスは犯人のアリバイ工作を見破るべく颯爽と旅立つのかというと、そうはならないのである。物語の後半、確かに二人は小旅行をするのだが、それは被疑者たちのアリバイとは関係がない。しかし、そこから先が実は本作のクライマックス(この言葉に反してそれはとても穏やかで牧歌的なシーンだが)なのである。
初読の私自身がそうだったのだが、読者のほとんど、いや全員が、第五章の第3節の末尾で驚くに違いない(私は声を上げてしまった)。ひとりの登場人物についてのある事実が明かされるのだが、それは本作において最も意外性を持っていると言っても過言ではない。完全に虚を突かれ、果たしてどういうことかと思っていると、そこから物語は大きく旋回してゆき、この小説がどのようなものなのかという真相ならぬ真実を露わにしていく。そしてそれに伴って事件の真相も明らかにされるのである。その真相もかなり意外なものだが、この小説を純然たる「本格ミステリ」として読もうとした場合、疑問や不満を持つ読者もいるかもしれない。有栖川有栖のミステリはいつも堅牢な論理性に支えられているが、この小説のたったひとつの事件は、犯行が不可能だった被疑者を除いてゆく消去法でも、犯行方法が可能だった者を導き出す演繹法でも真犯人を指摘できない。先に述べた後半の展開に至るまでは、与えられた条件のみでは、誰がやったとしても矛盾や穴が生じるようになっているのだ。それを解決するには第五章第4節以降ではじめて読者に知らされるエピソードがどうしても必要であり、そして作中でアリス自身も語っているように、それを知った瞬間に犯行の方法と真犯人が同時に明らかになるのである(実はこの点について作者は非常に早い段階で一種の伏線を打っているのだが、ここでは触れないでおく)。敢えて述べるなら、本作は「本格ミステリ」ではない。今回ばかりは作者の意図は別のところにあったのだと私は思う。ではそれは何だったのか?
一言で述べよう。それは「動機」である。この小説で最も重要な要素は、なぜ犯人が殺人を犯したのか、という動機なのだと私は思う。確かに「作家アリス」シリーズを通して火村は動機を必ずしも重視しないスタンスを標榜してきた。探偵の仕事はあくまでもフーダニットとハウダニットであり、ホワイダニットはその後についてくるのだと。だが、この事件の核心は、誰が、でも、いかにして、でもなく、どうして、なのである。それがどのようなものなのかも、ここでは書かないでおく(本編を読む前に解説を覗く方にはネタバレ回避のために、すでに読了された方には言わずもがなということで)。だが、ひとつだけ記しておくならば、本作は、非常に繊細な、複雑さと深さと、そして残酷さをも兼ね備えた「恋愛ミステリ」である。人が人に対して抱く強く淡い(強さと淡さは両立する)想いを、ミステリという形式だからこそ可能なやり方で、しかし恋愛を題材とするミステリが陥りがちな紋切型を退けつつ、見事に描いてみせた作品だと私は思う。そして結末から顧みてみれば、そんな感情の姿もまた、伏線と呼んでもよい幾つもの細部、人物のちょっとした台詞や振る舞いによって、実は物語の早い段階から示唆されていたことがわかる。「ミステリという形式だからこそ可能なやり方」とは、そういう意味である。
単行本の刊行時にも話題になったが、本作では冒頭まもなく「特殊設定ミステリ」ブームへの言及がある(いささか驚くことに、それは今も続いている)。これは作者自身の意見表明と言っていいだろう。そこでは「特殊設定ミステリ」は優れた作品も多く読者の幅を広げることにも貢献していると肯定的に評価しつつ、自分自身は「ミステリはこの世にあるものだけで書かれたファンタジー」だと捉えているので軸を異にすると述べ、荒唐無稽だがルールが明確な「特殊設定ミステリ」の流行は現実世界の不安定さ不確実さと裏腹なのではないか、コロナ禍では尚更のこと、という考えを提出している。私もその通りだと思う。本作はまさに「この世にあるものだけ」で書かれている。「ファンタジー」という語の意味も単純ではない。本作もファンタジーなのだとしたら、それはどういう意味なのか、読者も考えてみていただきたい。
尚、二〇二四年八月に本作に続く「作家アリス」シリーズの新作にして「国名シリーズ」第十一弾に当たる長編『日本扇の謎』が刊行されている。これまた「この世にあるものだけで書かれたファンタジー」としてのミステリの傑作である。
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