〈大人こそ読みたい『赤毛のアン』。シリーズの翻訳者が心のバイブルと出会い、全文訳を手がけるまで。〉から続く
2024年はモンゴメリ生誕150年! 『赤毛のアン』シリーズ(アン・シリーズ)は、大人の文学として再評価されている。少女時代の『赤毛のアン』から、アンの息子三人が第一次大戦に出征する第八巻『アンの娘リラ』までの五十年をこえるアンの人生と、カナダの激動の時代を描いた大河小説。昨年完結した日本初の全文訳『赤毛のアン』シリーズ(文春文庫)を手がけ、話題を呼んだ著者が、その魅力を八つの観点から解説する最新の「赤毛のアン論」、『赤毛のアン論 八つの扉』が11月20日に発売になった。本書から一部抜粋してお届けする。(最初から読む)
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アン・シリーズのエピグラフ
『赤毛のアン』シリーズは、作中に英文学の名句が引用されるだけでなく、それぞれの巻の冒頭にも、詩の一節をエピグラフ(題辞、モットー)として掲(かか)げられています。
エピグラフとは、作品の冒頭に詩、小説、戯曲、聖書などの一節を置くもので、主題、主人公の人となりや運命を象徴的に暗示するものです。
この章では、それぞれの小説のエピグラフと献辞を解説しながら、全巻の物語とアンの生涯を、これから読む人のために簡単にご紹介します。
アメリカで発行された第一巻『赤毛のアン』(1908年)
モンゴメリはこの小説を1905年から06年1月にかけて執筆して、アメリカの複数の出版社に郵送します。しかし採用されず、のちに米国ボストンのL・C・ペイジ社に送ると、1907年4月に返事が届きます。そこには本として出版する、続編の執筆も依頼する、と書かれていたのです。そして翌1908年の6月に、『赤毛のアン』(以下、本文中は『アン』)はアメリカで発行されます。
当時、30代のモンゴメリは、アメリカとカナダの様々な雑誌に作品を投稿し、掲載されると原稿料をうける職業作家でした。現在判明しているだけで、『アン』の発行前に、短編小説が286作、詩が256篇、活字になっています。雑誌で活躍していたモンゴメリにとって初めての記念すべき本が第一巻『アン』です。
原題は「グリーン・ゲイブルズのアン」。意味は「緑の切妻屋根と破風窓(はふまど)のアン」です。
グリーン・ゲイブルズとは、アンがひきとられた農場の母屋の外観からついた屋号です。
第19章で、アンは、腹心の友ダイアナの大おばに「あんたは誰かね」と聞かれて、「グリーン・ゲイブルズのアンです」と答えています。屋号と名前で、どこの家の者か、わかるように名乗っているのです。
『赤毛のアン』のエピグラフ、献辞、物語
『アン』のエピグラフは次の二行です。
あなたは良き星のもとに生まれ
精と火と露(つゆ)より創(つく)られた
ブラウニング
19世紀英国の詩人ロバート・ブラウニング(1812~89)の詩「エヴリン・ホープ」(1855)からとられています。
この二行の意味は、主人公のアン・シャーリーが幸せを約束された良き星のもとに生まれ、豊かな精神、炎の情熱、朝露のごとき純真さから創られたというものです。
この小説の最後にアンが語る「神は天に在(あ)り、この世はすべてよし」(第38章)は、ブラウニングの劇詩『ピッパが通る』(1841)のなかの「朝の詩(うた)」の二行です。つまり『アン』はブラウニングの詩に始まり、ブラウニングの詩に終わります。
献辞には、「この本を、今は亡き父と母の思い出にささげる」とあります。
モンゴメリが2歳になる前に、母は病気で若くして世を去り、モンゴメリ24歳のときに、父もカナダ中西部サスカチュワン州で他界しました。『アン』が刊行されたとき、両親とも故人であり、モンゴメリは、初めての本を最愛の亡き父と母に捧げたのです。モンゴメリは『アン』の単行本が手元に届いたとき、日記に書いています。
[ああ、両親が生きてさえいれば、喜んで誇りに思ってくれただろうに。お父さんの瞳がどんなに輝いたことだろう!](1908年6月20日付)
『アン』の物語は、両親を亡くしたアンが、11歳の6月、カナダ本土のノヴァ・スコシア(新スコットランド)からプリンス・エドワード島にきて、アヴォンリー村にあるグリーン・ゲイブルズという農場にひきとられ、マシューとマリラの愛情、親友ダイアナの友情に恵まれ、美しい自然のなかで、すこやかに育っていく成長を描いた長編小説です。
最初は、子どもらしい滑稽(こっけい)な失敗をしていたそそっかしくて、やせっぽちで、想像力豊かで、可愛らしいおしゃべりをしていた幼いアンが、聡明で、明るく、独特の魅力をたたえた愛情深い娘に育っていきます。
また、それまで世間も狭く孤独に生きてきた60代のマシューと50代のマリラが、アンを育てることで、子どもを愛する喜び、子どもに愛される幸せを初めて知り、心の奥ゆき深い幸せな人物へ変わっていく大人の成熟も描かれます。
小説の後半で、アンは最愛の家族を喪(うしな)います。その悲しみのなか、自分の将来とグリーン・ゲイブルズ農場のゆくすえを真剣に考え、大きな決断をして、人生の「道の曲がり角」をむかえます。
アンはマリラに言います。
「今、その道は曲がり角に来たのよ。曲がったむこうに何があるかわからないけれど、きっとすばらしい世界があるって信じていくわ」第38章"Now there is a bend in it. I don’t know what lies around the bend, but I’m going to believe that the best does."
私たちは誰も人生の未来を見ることはできません。しかし人生の道の曲がり角のむこうに最高のものが待っている、そう信じて生きていく心に幸せが訪れる。これはモンゴメリから私たち読者への励ましと愛に満ちたメッセージです。
最後にアンは、赤毛をからかった同級生の少年ギルバートが自分を犠牲にしてアンを助けてくれたことを知り、頬をそめて彼に感謝を伝え、握手をして語り合います。『アン』は、若い二人のさわやかな友情と青春が始まる予感とともに幕を下ろします。
アン・シリーズはスコットランド系カナダ人の小説
モンゴメリは、祖先が18世紀にスコットランドから来たスコットランド系カナダ人です。
そのため、アン・シリーズの登場人物はほとんどがスコットランド系で、一部に北アイルランド系、ウェールズ系もいます。アン・シリーズは、おもにスコットランド系のカナダ人を描いた英語文学です。
『赤毛のアン』カスバート家、アン、同級生たち
グリーン・ゲイブルズのカスバート家は、マシューの母がスコットランドから白いスコッチローズをもってカナダに渡ってきたと書かれています(第37章)。一家の信仰は、スコットランドの宗教改革によって誕生したプロテスタントの長老派教会です(第25章)。そこでカスバート家はスコットランド系です。
カスバートという名字は、モンゴメリの親族にもいますが、一般には7世紀イギリスのケルト的な初期キリスト教の聖人、聖カスバート(634頃~687)が有名です。
主人公のアンは、ノヴァ・スコシア(新スコットランド)の生まれ育ちで(第5章)、スコットランド民族の伝統的な帽子のタモシャンター(第19章)と、スコットランドの乙女が未婚の印に頭にまいたリボンのスヌード(第27、28章)を身につけています。
アンは、マリラが台所の窓辺においてハーブとして使う林檎香(アップルセンテッド)ゼラニウムを、スコットランド語で「ボニー」(意味は良い、美しい)と名づけます。また18世紀にインクランドに併合されて王国を失ったスコットランドの悲劇的な歴史の詩、たとえば16世紀にスコットランドがイングランドと戦って、スコットランド国王ジェイムズ4世をはじめ1万人以上が戦死して大敗を喫(きっ)したフロッデンの戦いの詩、イングランドに幽閉されて処刑されたスコットランド女王メアリの詩を愛誦することなどからも、アンはスコットランド系とわかります。
アヴォンリー校の同級生では、善良な優等生ジェーン・アンドリューズは、アンドリューズがスコットランドの守護聖人(聖アンドリュー)の名前、金髪碧眼(へきがん)の美少女ルビー・ギリスのギリスは、ゲール語由来のスコットランド人の名字です。さらに二人は長老派教会の信者ですから、スコットランド系です。
アンの腹心の友ダイアナ・バリー
ダイアナは、寒い冬の日にアルスター・コートというオーバー・コートを着ています(第25章)。アルスターとは北アイルランドをさす地名で、アルスター・コートは、アルスター地方の毛足の長い毛織物で作った暖かな外套(がいとう)です。
こうした特定の地名にまつわる服をわざわざ小説に書きこむとき、作家は、その地域とそれを着用する人との関連を意識しています。
たとえば日本の小説で、女性が加賀友禅の訪問着をまとっていたら、おそらく金沢出身だろうと読み手に思わせる意図があります。もし琉球絣(りゅうきゅうがすり)の着物を身につけていれば、沖縄にゆかりがある人物と推測できます。
そしてバリー家の信仰は長老派教会です。
アイルランド共和国はカトリック教徒が多いのですが、英国に属している北アイルランドのアルスター地方は、17世紀より、対岸のスコットランドから長老派教会の信者が移り住んでいます。1606年からの40年間だけでも、長老派教会を信仰するスコットランド人が10万人、アルスター地方にきたのです(『地図で読む ケルト世界の歴史』)。ダイアナの家族は長老派教会の信者であり、スコットランド系の北アイルランド人「アルスター・スコッツ」です。
マリラの親友のレイチェル・リンド夫人は北アイルランド系
マリラの親友のレイチェル・リンド夫人は、第一巻『アン』と第四巻『風柳荘(ウィンディ・ウィローズ)』で、アイルランドの諺(ことわざ)を話しています。
『アン』では、「アイルランドの諺にあるように、人は何にでも慣れる、首を吊(つ)られることにさえ」と言います(第1章)。
『風柳荘(ウィンディ・ウィローズ)』では「クリスマスに雪があれば墓場は肥(こ)えない」ためにホワイト・クリスマスになって喜びます(2年目第6章)。この諺の意味は「冬に雪がつもれば、翌年は豊作となり餓死者が出ない」というものです。アイルランドは19世紀半ばに主食ジャガイモの不作などから約100万人が死亡した大飢饉(だいききん)を経験しています。さらにリンド夫人は『風柳荘』で「アイルランドの二重鎖(ダブル・アイリッシュ・チェーン)」というパッチワークのパターンを縫っています。
リンド夫人は熱心な長老派教会の信徒です。そこから夫人も「アルスター・スコッツ」と思われます。スコットランド人が、18世紀から新大陸カナダへ移民したように、「アルスター・スコッツ」も18世紀からカナダへ渡っていった歴史があります。
このように『アン』において、アンと親しい人々は、アンも含めてスコットランド系とアイルランド系のケルト族です。
松本侑子(まつもと・ゆうこ)作家・翻訳家。
著書に、『巨食症の明けない夜明け』(すばる文学賞)、『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』(新田次郎文学賞)、『赤毛のアンのプリンス・エドワード島紀行』(全国学校図書館協議会選定図書)、『英語で楽しむ赤毛のアン』、詩人金子みすゞの詩を読解した『金子みすゞと詩の王国』(文春文庫)、みすゞの伝記小説『みすゞと雅輔』など多数。
訳書に、日本初の全文訳・英文学からの引用などを解説した訳註付『赤毛のアン』シリーズ全八巻(文春文庫)など。
2022年と2024年にカナダのモンゴメリ学会で研究発表。カナダ渡航30回。
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