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もっと〈不自由〉に生きたいあなたのための物語――「恐怖心展」とも響き合う、ホラー作家・梨の極上怪談「恐怖症店」【冒頭立ち読み】

出典 : #文春文庫
ジャンル : #エンタメ・ミステリ

令和最恐ホラーセレクション クラガリ

背筋 澤村伊智 梨 コウイチ はやせやすひろ✕クダマツヒロシ 栗原ちひろ

令和最恐ホラーセレクション クラガリ

背筋 澤村伊智 梨 コウイチ はやせやすひろ✕クダマツヒロシ 栗原ちひろ

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 ひとが自分だけの「恐怖症(フォビア)」を手に入れたとき、果たして何が起こるのか? 神出鬼没の「恐怖症売り」がもたらす新たな「しあわせ」の形。冒頭を無料公開でお届けします。


「恐怖症店」(梨・著)

 女は恐怖症を売り歩いていた。

 夏、べたついた潮風がまとわりつく港町。ひとりの女が行商のように、或いは夜鷹のように、小さな露店を開いている。女は、その集落に於いては珍しい黒色の洋袴を穿き、寂れた裏通りの一角を陣取るように敷いた茣蓙の上に坐っていた。紅に近い橙の夕間暮れに、そこだけが影のように黒い。

 道を行き交う人々は誰も、その黒い女に目を向けなかった。まるで、その姿が全く見えていないかのように。彼女は人々の様子を眺めながら、何が面白いのか、僅かに口角を上げた微笑を崩さない。西洋の喪服を思わせる、顔を覆う半透明の黒いヴェールを透かして、硝子細工のような目が覗いている。つくりもののようなその瞳も、病的なほどに白い肌も、何ら人間らしい要素を感じさせなかった。

「店主」

 彼女の横で、ひとりの少年が平板な声で話しかける。彼はこの店の客ではなく、彼女の助手のような仕事をしている子供だった。入院着のように簡素で白い洋服を着た、年の頃なら十二、三歳の、やや小柄で線の細い男子である。愉しげな笑みを浮かべる黒い女とは対照的に、少年は年齢に見合わない無表情を貫いていた。

「まだ店は仕舞わないのですか」

 教科書を読むのにも似た、淡泊な声の調子。彼の声に呼応するように、女は視線をちらりと少年の方へ向けた。

「今日のところは、まだだ。もう暫くこの辺りに店を構えていれば、私を必要としている人間が訪れる。陽が落ちるよりも早いだろうから、カタももう少し待っておけ」

「客と、約束でもしているのですか」

「約束などするはずがない。私がそう思っているということは、いずれ私を必要とする人間が訪れる。そういう仕組みになっているのだ」

 ぬるく湿った空気に、鼻先のヴェールが揺れた。

 辺りは薄暮の雲に覆われ、今にも昏くなろうとしている。その日はいつにも増して湿度が高く、夏らしい陽気に満ちた空気もどこかへ消え失せていた。心地良い風が吹いているというよりも、淀んだ分厚い空気の層が、窮屈そうに互いを押し退けあっている感覚。空気が循環せず、代謝せず、ぐずぐずとその場に留まっている。まるで、彼女の周りだけが、あらゆる生命的な循環を拒否しているかのように。

 カタ、と呼ばれた少年は、再び彼女から視線を外し、人の行き交う通りを眺める。その動きと、ほぼ同時だっただろうか。

 

 裏通りの奥から、不意にひとりの少女が現れた。

 年の頃はカタと同じくらいだろう。学舎帰りなのか、その身形にはやや大きな学生鞄を抱え、所在なげにきょろきょろと辺りを見回しながら歩いている。彼女は女と少年のいる方に目を向けると、少しだけ立ち止まり、ややあって恐る恐るといった表情で近付いてきた。

 少女の周囲には幾人かの大人がいて、それぞれに家路を急いでいるが、彼らが少女の視線の先にあるものに気付いている様子は全くない。

「あの」

 茣蓙に坐した女に、少女は話しかける。

 黒い鞄を前抱きに、やや不安げな声色で。

「何でしょう」

 黒い女はにこやかに応える。

 先ほどまで少年に向けていた尊大な態度は噓のように――麗らかな声と丁寧な言葉遣い、そして柔和な表情で彼女を見上げる。その上目遣いの瞳の奥の奥、黒い薄膜を隔てた目に宿る何らかの感情に、果たして少女は気付いたかどうか。

「あなたは――何、なのですか」

 かける言葉に随分と逡巡したようだ。

 少女の小さな掌が、白いブラウスの裾をぎゅっと摑む。

「それは、貴女自身がよく分かっている筈ですわ。私に気付けているのなら」

「そう言われても――私自身も、何でここに来たのか、よく分からないのです。学校から帰ろうとして、通学路を歩いているうちに、ふらふらと――」

「何かに誘われるように。皆様、そう仰いますね」

 女は、黒い手袋に包まれた右手を、差し出すように少女へ向ける。

「私は、この『恐怖症店』の店主をしております。貴女にぴったりの恐怖症を、御覧に入れて差し上げますよ」

 


◆『令和最恐ホラーセレクション クラガリ』8月5日(火)発売

『令和最恐ホラーセレクション クラガリ』

現代の「クラガリ」から溢れ出し私たちの心を呑み込むものとは――?
究極の6ストーリーズ。

目次
○背筋「オシャレ大好き」
○澤村伊智「鶏」
○コウイチ「金曜日のミッドナイト」
○はやせやすひろ×クダマツヒロシ  
 「警察が認めた〈最恐心霊物件〉」
○栗原ちひろ「余った家」
○梨「恐怖症店」(書誌ページ)

書誌情報
『令和最恐ホラーセレクション クラガリ』(文春文庫)
発売日:2025/8/5(火)
文庫:256ページ
価格:770円(税込)
ISBN:978-416-792400-3
詳細:https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167924003

文春文庫
令和最恐ホラーセレクション クラガリ
背筋 澤村伊智 梨 コウイチ はやせやすひろ✕クダマツヒロシ 栗原ちひろ

定価:770円(税込)発売日:2025年08月05日

電子書籍
令和最恐ホラーセレクション クラガリ
背筋 澤村伊智 梨 コウイチ はやせやすひろ✕クダマツヒロシ 栗原ちひろ

発売日:2025年08月05日

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