ある夜、隣の編集部の先輩から頼まれた客を待っていると……。
現代のホラー界をぶっちぎりで牽引する澤村伊智が放つ、切れ味抜群の読み切り短篇「鶏」、その冒頭をお届けします。
「鶏」(澤村伊智・著)
私はかつて、とある中堅どころの出版社で雑誌の編集者をしていた。
社名も、当時携わっていた雑誌の名前も伏せる。ただ、低俗なことで名を馳せたゴシップ誌や、「お菓子系」などと呼ばれていた男性向け雑誌、老舗アダルトゲーム誌を刊行する出版社だったことは明かしてもいいだろう。編集部員は概ね「インテリ」「不良」「オタク」の三種類に大別されたが(厳密には「不良」と「オタク」の間にはグラデーションがある)、私はそのどれでもない半端者だった。だからこそ、今はこうして小説家などという浮草稼業で糊口を凌いでいるのかもしれない。編集部の体質や雰囲気は出版社ごとに異なるものだが、私が勤めていたところは激務ながらユルかった。終電や泊まりの勤務が常態化していたが咎めるものは管理職にもおらず、場所は限られていたが煙草も吸えた。「資料」と精算書に記せば大抵の本やDVDを経費で落とせた。
自社ビルはオンボロだった。編集部は散らかっていた。会社で寝る時はワーキングチェアを並べてその上で寝るか、隅に段ボール箱を畳んで敷き、タオルケットに包まって寝る。仮眠室のベッドはいつも埋まっていて、しかも不潔だったからだ。出版不況もあってか新規採用はアルバイトすら年々減り、一方で業界に見切りを付けて辞める人間は後を絶たず、慢性的な人手不足に喘いでいる。そんな世界だった。
以下はそうした編集部オフィスで私が体験した、ある深夜の出来事を、できるだけ記憶に忠実に書き起こしたものである。およそ十七、八年前、二〇〇〇年代後半のことだ。
§
午前一時。雨が降っていた。
私はパソコンに向かって、自分の担当ページの原稿を書いていた。よくも悪くもDIYが推奨される社風で、ライターに出す意義のない文章は編集者が書くのが当たり前だった。あと一時間くらいで書き終わるかな、と思ったところで、声を掛けられた。隣の編集部の先輩、山重さんだった。一緒に仕事をしたことはないが、給湯室で喫煙しながら雑談する程度には親交があった。
「これから打ち合わせで作家さんが来るんだけど、オレ、急用でさ。もし作家さんが来たら案内して、待っててもらってくれない? すぐ戻れると思う」
完全夜型の、文章も達者な漫画家に、イラストコラムの連載を依頼したという。仮にQ氏としておこう。私の全然知らない人で、作品を読んだこともなかった。
オフィスには私と山重さん以外、誰もいなかった。彼も私もかれこれ一週間近く会社に泊まっていて、同胞意識のようなものが芽生えていた。断る理由は何もなく、私は「分かりました」と答えた。原稿は朝までに完成させればよかった。
「助かるよ」と山重さんはオフィスを出て行った。
しばらくしてインターホンが鳴った。出ると小さな声で「Qです」と名乗ったので、私はオートロックの解錠ボタンを押した。「そのまま三階にお越しください」と告げる。
階段で私のいる三階に上がってきたQ氏は、四十歳くらいの小さな男性だった。もやしっ子、と呼びたくなる痩身。おどおどした態度。服はひどく地味で、スラックスの裾から脛まで雨に濡れていた。色あせた鞄を身体の前に提げていた。
隅の打ち合わせ用テーブルに案内し、冷蔵庫にあった未開封の(賞味期限の過ぎていない)ペットボトルの麦茶を出し、撮影で買ったが結局使わずにいた、未使用のハンドタオルを渡す。Q氏は酷く恐縮し、「すみません」「どうも」と何度も頭を下げていた。
経緯を説明し、「なので申し訳ありません、少しお待ちください」と詫びて、私は自分の席に戻った。原稿執筆を再開したが早々に詰まってしまい、給湯室に向かう。煙草を吸うためだった。
半分ほど吸ったところで、Q氏がやってきた。彼は申し訳なさそうに言った。
「あのう、煙草を一本いただけませんか。自分の、完全に濡らしてしまって……」
「どうぞ。メンソールでよければ」
「すみません」
煙草を咥えた彼に、私はライターの火を差し出した。二人で黙って吸っていると、不意に私の腹が鳴った。
「すみません。馬鹿みたいな音お聞かせして」
「と、とんでもない」
「この時間、だいたい小腹が空くんですよ」
私は煙草を咥えたまま、常備している冷凍のチキンナゲットの袋を冷蔵庫から引っ張り出した。電子レンジの扉を開けながら、Q氏に訊ねる。
「よかったら如何ですか?」
「いえ」Q氏は苦笑いしながら、「駄目なんです。鶏、食べられないんです、僕の家。アレルギーとかじゃないんですけどね」と答えた。
言葉も言い方も引っ掛かった。時間潰しの雑談の種になればいい、そんな軽い気持ちも芽生えた。なので私は率直に、簡潔に訊ねた。
「というと?」
「た、食べちゃいけない決まりなんですよ。き、禁忌……って言うんですかね。タブー、決まり、ルールなんです」
「掟みたいな」
「いや、そう言っちゃうとなんか因習っていうか、暗い感じになっちゃいますけど、そういうんじゃなくてわりとこう、軽い感じで続いてるんです。『食べちゃ駄目なんだって~』『そうなんだ~』みたいな。親戚一同、昔からずっとそんな感じで」
「そうなんですね」
「東北地方にはよくあるみたいですね。鶏が駄目って地域。食べるのは勿論、飼うのも禁止。あと九州のどこかに、鰻を食べちゃ駄目って地域もあったはずです。それからどこだったか忘れましたけど、犬を飼うのが駄目とか。どれも祀ってる神様が嫌がるからとか、逆に神様の化身だからとか、要するに、民間信仰っていうか、土着信仰なんですよ。それも完全に根付いてしまって、普段は神様だとか、宗教だとか考えることもない、そういうリアルな信仰」
「なるほど、そういうのがあるん──」
◆『令和最恐ホラーセレクション クラガリ』8月5日(火)発売

現代の「クラガリ」から溢れ出し私たちの心を呑み込むものとは――?
究極の6ストーリーズ。
目次
○背筋「オシャレ大好き」
○澤村伊智「鶏」
○コウイチ「金曜日のミッドナイト」
○はやせやすひろ×クダマツヒロシ
「警察が認めた〈最恐心霊物件〉」
○栗原ちひろ「余った家」
○梨「恐怖症店」(書誌ページ)
書誌情報
『令和最恐ホラーセレクション クラガリ』(文春文庫)
発売日:2025/8/5(火)
文庫:256ページ
価格:770円(税込)
ISBN:978-416-792400-3
詳細:https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167924003
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