突然ですが、2‌0‌2‌5年という年は英語教育を生業とする私にとってはちょっと恐ろしい年でした。もちろん予言者が人類の滅亡を予言した年だからというわけではありません。それくらいなら気にならないのですが(ちょっとは怖いかもしれませんが)、そうではなく、AI研究の第一人者である松尾豊氏が2‌0‌1‌5年の著書『人工知能は人間を超えるか』の中で外国語学習や翻訳がなくなるかもしれないと予想した年なのです。外国語学習が不要になるということはすなわち外国語教育が不要になるということですし、これは単なる「予言」ではなく科学者が示した「予想」ですのでかなり気になります。

 この予想を裏付けるように、2年ほど前から英語教育界隈が騒がしくなってきていました。もちろん、英語教育が騒がしいのは今に始まったことではないですが、騒がしさのレベルが違うのです。これまでにも、英語教育は社会の荒波に揉まれてきました。グローバル化にふさわしい人材を育成せよ。小学校から英語教育をはじめよ。英語は英語で教えよ。教員の英語力を上げよ。とまあ、常に外野からのリクエストに応えるべく英語教育は右往左往してきたからです。しかし、さすがに今度の騒がしさはこれまでのものとは比較になりません。英語教育の存亡の危機であり、英語教育の在り方そのものが問われるような大地殻変動が起きているからです。

教師も英語学習もいらない?

 2‌0‌2‌2年11月に米国OpenAI社がリリースしたチャットボットChatGPT-3.5は瞬く間に世界を席巻しました。ついに人間と自然にことばを交わすAIが登場したのです。しかも、このAIは日進月歩で改良され(というか進化し)、現在(2‌0‌2‌5年8月時点)のChatGPT-5は、文字データだけでなく音声、画像、動画などのデータを統一的に扱える点で、より人間らしくなっています。このようなAIの登場は、すぐに多くの英語教師の目に留まりました。「これは英語教育に使えるのではないか」と。実際、授業での活動や到達度の評価、さらには教材の作成にAIを活用しようという試みが多方面で行われています。

 そしてそのような取り組みの中、教師たちはだんだん気づくことになります。もはや人間の教師はいらなくなるのではと。例えば、学生が自分の書いた英作文をChatGPTに見てもらいます。ChatGPTは誤りを修正してくれますが、それだけではありません。なぜそこが誤りであるのか、どう直せばより良くなるのかを教えてくれます。さらに、文章の流れに関して、どんな点が良くて、どこを改善すればもっと良くなるのかを懇切丁寧に指導してくれたりもします。読解はどうでしょう。ChatGPTは英文を日本語に訳してくれます。しかも、文法や構造を示し、なぜそのような訳になったのかまでも教えてくれます。リスニングはどうでしょう。ChatGPTに音声を聞かせればスクリプトを作ってくれます。聞き取れなかった箇所が文字で示されるのです。かなりきつい訛りのある英語にも対応してくれます。極めつけはスピーキングです。ChatGPTは会話の練習相手をしてくれます。しかもどんな話題にでも対応してくれます。いつでもどこでも何時間話してもOKです。こんなことを無料で(有料版を使っても月々3‌0‌0‌0円ほどで)やってくれるのです。現実世界にこれだけやってくれる教師がいるでしょうか。全く文句を言わない専属のネイティブスピーカーのプライベートレッスンを無料または破格の値段で受けることができるようになったのです。

 英語教師の動揺は、それだけに留まりません。よく考えてみたら、ChatGPTなどのチャットボットを用いれば、言語の壁を乗り越えることができるのです。なぜ私たちはこれまでせっせと英語を勉強してきたのでしょうか。それは英語で情報を得、英語で発信するためです。国際化、グローバル化が進んだ現代では、複数の異なる言語話者とコミュニケーションをとる必要があり、英語がリンガフランカ(国際共通語)としての役割を果たしていたからです。ところが、現時点ですでに、ChatGPTなどのチャットボットを用いれば、自身の母語を使って複数の異なる言語話者と意思疎通を同時に図ることができるようになったのです。

 例えば、これまでは、日本語話者、中国語話者、アラビア語話者が一堂に会して話す際には、互いにとって外国語である英語を使わなければなりませんでした。他に方法がないので、仕方なく、お互い片言の英語を用いてどうにか意思疎通を図ろうとしてきたわけです。しかも、そこにアメリカ人が一人加わるとかなり面倒なことになります。英語を自由自在に操れる母語話者はほとんどの場合で会話の支配権を握ってしまうからです。このような不公平な状況は至る所で見られました。

 今や、そんな状況は過去のものとなりつつあります。AI翻訳を使ってお互い意思疎通を図ることができるようになったからです。もうコミュニケーションのために英語を学ばなくてもよくなったのです。私が母語である日本語を使って話しても、その内容が瞬時に中国語、アラビア語、英語に翻訳されそれぞれの耳に届きます。逆もまたしかりです。それぞれが遠慮なく自分の母語を使ってよいのです。そこに英語母語話者だけに与えられたこれまでのような特権はないのです。

未来のシナリオ

 これは、英語嫌いの人たちにとっては朗報です。私たちはこれまで、小学校(2‌0‌2‌0年~英語必修)、中学校、高校、大学と、なかば強制的に英語を学んできました。英語はどの大学でも必修であることを考えると、事態は思っているよりも深刻です。これまで英語がネックとなり卒業が遅れた、または、卒業できなかった人もいるからです。

 そもそも日本語ですら見知らぬ他者に話しかけるのが苦手な人だって少なからずいます。それなのに、教室では英語で会話しなければならない。そうしないと、必修の英語コミュニケーションの単位がもらえないからです。そんな苦行を強いられている学生が今現在も少なからずいるのです。

 このような悩みは過去のものになるかもしれません。今後普及が見込まれる車の自動運転と運転免許証の関係を例にとって考えてみましょう。自動運転技術の進歩には目を見張るものがあります。そして、将来、人間の運転よりもAIによる自動運転の方が安全だという、そんな認識が広まる時代が訪れるかもしれません。自ら運転することに喜びを感じる一部の人以外の大多数の人々は、自らハンドルを握ることをやめ、AIにすべてを任せることになるかもしれないのです。

 もちろん、すぐには運転免許証廃止の動きにはならないと思います。何かがあった時に運転できないと困りますから。ところが、その何かが起こることはほとんどなく、しかも、運転免許証を取得してから10年以上一度もハンドルを握ったことがないという人たちが出てくるようになるころには、免許証不要論が巻き起こることは想像に難くありません。

 おそらく最初は簡略化からのスタートです。2、3日の講習を受ければ取れる自動運転限定免許証のようなものが現れるかもしれません。そしていつしか、運転免許証はそもそも不要であるという意見が大半を占めるようになるという流れです。

 このアナロジーを使って英語教育の未来のシナリオを大胆に予想してみましょう。最初は、自ら英語を用いて外国人と意思疎通を図りたいと思う人が多いと思います。しかしながら、窮地に陥った時にAIに頼ったり、ちょっとしたときにAIに頼ったりしている中で次第に抵抗感が減っていくでしょう。そして、一部の人を除き、AIを用いてコミュニケーションをとるのが常態化されるようになるのです。

 そうなってくると、はたして必修科目として英語を勉強する必要があるのかという議論が巻き起こることになります。時間と労力とお金をかけたにもかかわらず英語を全く使わないではないかという不満が噴出するのです。それを受けて、授業数の削減や脱必修化の流れが起こるかもしれません。その後は英語は自由選択科目となり、学びたい人だけが学ぶ科目になるというシナリオです。

ことばの多面性

 これに対しては異論もあります。実際、私自身、このようなシナリオには従わないのではないかと考えています。なぜなら、このようなシナリオはことばの一側面だけを見て描いたシナリオだからです。ことばはコミュニケーションの道具だと言われています。だからこそ、これまで国際化・グローバル化のなかで英語を学ぶ必要があったのです。多様な人々と意思疎通を図る共通の手段が必要だったのです。

 しかしながら、ことばにはコミュニケーション以外にもっと他の側面があることも忘れてはなりません。例えば、ことば遊びや俳句のように娯楽的な側面や創造的な側面もあります。また、ことばを武器に喩えることもできるでしょう。口げんかの武器になるだけでなく、政府や官僚が民衆をコントロールするためのプロパガンダにも用いられる恐ろしい武器にもなるのです。他にも、ことばには文化の形成や伝承という側面もあります。

 要するに、ことばが持つ機能は決してコミュニケーションだけではないということです。たしかに、今後、コミュニケーションの道具としての外国語の役割の多くはAIによって代替されるかもしれません。しかしながら、ことばにはAIに代替されない他の機能もあるのです。そのことを忘れてはなりません。

 ことばの持つ機能の中でも特に忘れてはならないのは、ことばは思考の道具であるという側面です。私たちはことばを用いて多くのことを考えています。試しに、心の中でことばを一切使わずに次の休暇の計画を立ててみてください。いかに私たちが思考を組み立てる道具としてことばを使っているのかがわかると思います。多くの場合、私たちはことばを用いて思考しているのです。

 AIによって代替されるのは、ことばが持つ多様な機能のうち、コミュニケーション機能だけです。思考の道具などの機能は、AIによって代替されません。私が今後も英語を学ぶ価値は失われないと考えているのは、ことばにはこの機能があるからです。

「使える英語」圧力からの解放

 本書では、ことばの持つ様々な特徴の中から特に、言語と思考、言語と文化に焦点を当て、ことばの興味深い側面を見ていくことにします。結果として、今後、AI翻訳がいかに発展しようとも、英語に限らず外国語を学んでいくことの意義は決して失われないということを皆さんと一緒に確認していきたいと思います。

 禍転じて福と為すではありませんが、考え方によっては、AIの登場は英語教育の救世主かもしれません。これまで英語というと、コミュニケーションの道具であるという側面ばかりが強調されてきました。社会全体がそのことに気をとられ、英語教育に「使える英語」を求めてきたのです。

「使える」は「しゃべれる」ということとは同義ではないはずですが、現在の風潮では「しゃべれる」ということを意味することが暗黙の了解となっています。そのため、これまで教室で行われていたコミュニケーション以外の英語活動(例えば、文法学習や訳読)は、ある意味、社会の要請に従わない必要悪とみなされ、肩身の狭い思いをしてきました。

 しかしながら、今後は、社会からの「使える英語」圧力がなくなるかもしれません。少なくとも弱まることは確かです。そして、社会の圧力が弱まるということは、その分だけ英語教育が自由になるということを意味します。これまで、コミュニケーション一辺倒でがんじがらめになっていた英語教育が、ようやく解放されるのです。

 これは、AIとの分業体制がスタートすると言ってもいいでしょう。英語のコミュニケーション機能をAIに任せれば、学校教育では英語圏の人々の思考法や文化について考えることにより多くの授業時間を割くことができるのです。

 念のために付け加えておきますが、私は英語のコミュニケーションは不要だと言っているのではありません。国際舞台で活躍する政治家やビジネスパーソンは、今後も、自らの英語で親密な人間関係を築く必要があるでしょう。また、子供たちから英語でコミュニケーションする楽しみを奪えと主張しているわけでもありません。要は、「使える英語」という社会的な圧力から解放されることにより、英語学習の目的が多様化するということです。

 以上のような認識に基づき、本書では、主に英語と日本語を比較しながら、言語と思考、言語と文化の関係について考えていきます。そして、ことばの奥深さに触れることによって、これまで背景化されてなかなか意識されてこなかった外国語を学ぶことの教養的意義について考えていきたいと思います。


「はじめに」より