視えないランナーたち

 小学生の頃、毎年一月二日、三日になるとテレビのチャンネルを日本テレビに合わせ、おせち料理をつつきながら箱根駅伝を観戦するのが我が家の恒例だった。そのテレビ画面の中では、年ごとに出場する大学もランナーも変わるはずなのに、いつも決まって同じ光景が繰り返されていた。圧倒的な走りで日本人選手を次々と抜き去っていく、ケニア人ランナー。実況アナウンサーは興奮気味に「驚異的な走りです!」と叫び、解説者は「やはりケニア人は別格ですね」と感嘆の声を上げる。所属する大学やケニア人ランナーの名前が変わっても、ほとんど毎年、同じシーンが映し出されてきた。それを目にする度、私が抱くのは称賛でも驚きでもなく、ごく単純な疑問だった。

 この人たちは一体、何者なのだろう。

「○○大学のエース、○○選手」という紹介はあるものの、それ以上の説明はほとんどない。「ケニア出身の」という紹介の先に続くのは、前年の成績か、駅伝での実力の参考になる五千メートルや一万メートルといったトラックレースのベストタイムくらいだ。日本人選手を紹介する場合、名前や出身地の他に、両親や祖父母ら家族とのエピソードや大学卒業後の進路など、プライベートの具体的な情報が付け加えられる。学校対抗で繰り広げられるレースのドラマ性に加えて、こうした学生たち個々人の背景がスパイスとなることで、箱根駅伝は単なる関東の大学駅伝大会というだけではなく、学生たちの喜怒哀楽が詰まった青春ストーリーとして見る人の感動を呼ぶ。今や三〇%前後の視聴率を誇る国民的なコンテンツとなっている。

 ところが、その一端を担うケニア人ランナーの背景となると、ほとんど語られない。区間を最も速く駆け抜けた区間賞を獲得したり、歴代のどのランナーよりも速い区間新記録を樹立したりしているにもかかわらず、彼らがケニアのどの地域から来たのか、きょうだいはいるのかいないのか、そしてなぜ、一万キロ以上も離れたアフリカ大陸から日本に来たのかなどを知る術はない。彼らにも家族がいるはずだし、故郷があり、そこには友人もいて、若くして日本に来ることを決めた理由があるはずだ。日本語を覚える苦労もあっただろうし、慣れない食事や気候に戸惑った日々もあったに違いない。なのに、そうしたストーリーが語られることはない。

 テレビの画面越しにしっかりと「見えている」はずなのに、実態を把握することができないランナーたち。視界に入ってはいるのだが、その素性を知ることができない、いわば「視えない存在」の謎に、私はいつしか魅せられるようになっていた。

だって「留学生だから」

 近年の箱根駅伝は、大学生のレベルが上がったこともあり、どの区間にも社会人ランナーに引けを取らない有力ランナーが揃うようになった。それでもやはり、注目度が高いのはエース区間で、各大学のトップランナーが集うのは往路の要、「花の二区」である。全長二十三.一キロの長距離区間であり、神奈川県の鶴見から戸塚へ向かう過酷なコース。序盤は平坦な道が続くが、中盤には細かなアップダウンと十三キロ付近から続く権太坂、二十キロを過ぎてからはゴールまで続く約三キロの「戸塚の壁」と呼ばれる坂がある。仮にチームが一区で出遅れたとしても、二区のエースランナーが盛り返せば、三区以降で再びトップ争いに加わることが可能になる超重要区間だ。襷を受け取るまでに一区間しか終えておらず、前のランナーとのタイム差も大きく開いていないため、十人を超えるようなごぼう抜きも起こりやすい。花の二区と呼ばれるのは、各校のエースが集うからだけではなく、勝負どころがいくつもちりばめられた、ドラマが生まれやすい見どころ満載の区間でもあるからだ。

 二〇二五年、青山学院大学が八度目の総合優勝を飾った一〇一回大会でも、二区は勝負の展開を大きく動かす重要区間になった。一区で十位と出遅れた青学のエース区間を担ったのは、三年生(当時)の黒田朝日。前年も同区間で区間賞を獲得していた黒田は、その時よりも二十三秒早い一時間五分四十四秒(前年は一時間六分七秒)で駆け抜けた。それまでの箱根駅伝の歴史で、二区を一時間五分台で走ったランナーはわずか二人しかいない。紛れもない大記録だった。黒田は十位で受け取った襷を三位まで押し上げ、レースの流れを一気に変えた。

 その青学のエースよりも速く走った日本人ランナーがいる。創価大学の四年生(当時)、吉田響だ。吉田のタイムは黒田よりも一秒早い一時間五分四十三秒で、十七位だった順位を四位にまで挽回する大激走だった。この二人のタイムはいずれも、それまでの区間記録であったイェゴン・ヴィンセント(東京国際大学)の一時間五分四十九秒を上回っていた。見事な区間新記録。箱根駅伝の歴史に名前を刻むはずだった。しかしながら、その二人はいずれも区間賞を獲得できなかった。さらに速く駆け抜けたランナーに、阻まれたからだ。

 二区を最も速く走ったのは、東京国際大学の二年生(当時)、リチャード・エティーリ。ケニア出身の留学生ランナーだ。タイムは一時間五分三十一秒。順位を十四位から二位に押し上げ、襷を渡す戸塚中継所では、実況中継する日本テレビのアナウンサーが「なんと! 区間記録を超えてきた」と伝えるとびきりの大記録だった。

 しかし、人々の記憶に深く刻まれたのは、黒田と吉田の二人だった。襷を受け取ったエティーリは一気に加速し、最初の三キロで十人を抜き去り、さらに前方のランナーたちを射程に捉えていた。その姿にテレビカメラも注目し、幾度となく走りを映し出す。エティーリが活躍するたびに、実況は「史上最強の留学生ランナー」という枕詞を添えて紹介していた。

 確かに、エティーリは五千メートルと一万メートルのトラック競技に加えて、ハーフマラソンでも日本学生記録を保持する圧倒的な存在ではある。史上最強の学生ランナーであることに間違いはない。しかし、その史上最強という言葉の後ろには「学生ランナー」ではなく「留学生ランナー」という単語が使われる。その単語選びには、エティーリを「大学駅伝を走るひとりの学生」ではなく、「日本人とは別の次元にいる助っ人」と扱う無意識の距離感が滲んでいた。

 だからこそ、留学生ランナーが区間新記録を打ち立てても、「強くて当たり前」「留学生だから」という受け止め方になる。そして、人々の記憶には、限界に挑みながら懸命に走る日本人選手たちの姿が残るのだ。

「なんじゃこりゃ、全然違うやん」

 日本の大学駅伝である箱根駅伝を外国籍のランナーが走っているのは、本戦で十位以内に与えられるシード権を争ったり、本戦に出場するための予選会を通過できるかどうかの当落線上にいたりする大学が、チーム全体の力を底上げするために留学生を受け入れるからだ。駅伝の伝統校であり、知名度も高い早稲田大学や中央大学、駒澤大学、あるいは近年、優勝を重ねて常連校の仲間入りを果たした青山学院大学などはトップクラスの日本人高校生ランナーを獲得しやすい。一方で、箱根駅伝に出られたり出られなかったりするレベルの大学は、なかなかエースクラスの高校生ランナーをスカウトできない。

 そこで、中長距離大国であるケニアから箱根駅伝の常連校のエースと同等かそれ以上の力を持つランナーをスカウトする。つまり、ケニア人のランナーたちへの期待は「走ってチームに貢献すること」であり、彼らは走って当然という立場にある。だからこそ、ケニア人ランナーは特別視され、他の日本人ランナーとは「違う存在」として扱われる。

 それは、各大学の監督たちの言葉からも読み取れる。例えば、二〇二五年の大会ではこんなシーンがあった。日本テレビが制作する箱根駅伝のドラマの裏側を振り返るテレビ番組、『もうひとつの箱根駅伝』では、監督が選手に指示を出す運営管理車の中の様子が映し出され、エティーリが区間新記録を樹立した瞬間に、神奈川大学の中野剛監督が「すげえ。マジで」と驚きの言葉を漏らしたシーンが使われていた。この言葉遣いは、どこか他人事のニュアンスが含まれているように聞こえた。

 あるいは、それまで二区の区間記録を保持していたヴィンセントが出場した際にも、運営管理車で戦況を眺める監督たちは、驚きの言葉を漏らしている。ヴィンセントは四度出場した箱根駅伝で三度の区間新記録を樹立しており、二〇二〇年の一年時には、三区でそれまでの記録を二分以上も更新する走りを見せている。区間新記録の一報を聞いた東海大学の両角速監督は、苦笑いをしながら「異常だなあ」と評し、早稲田大学の相楽豊監督(当時)も同様に「異常だよ」と漏らす様子が、『もうひとつの箱根駅伝』の映像内に残っている。日本人選手が快走を見せたとき、「異常」という言葉を使うだろうか。翌年の大会では、前年の実績を引っ提げて花の二区を走るヴィンセントを横目に、青学の原晋監督が驚きを隠せないでいた。

「来たよ、来たよ。なんじゃこりゃ、全然違うやん」

 こうした監督たちの言動を見ていると、ケニア人ランナーたちは確かに「別の存在」として認識されているように思える。そして、別の存在であるからこそ、どれだけ箱根駅伝で活躍したとしても、主人公としてスポットライトを浴びることはない。彼らはあくまでも助っ人なのだ。だからこそ、どこか天邪鬼なところがある私は、その脇役たちについて深く知りたいと思うようになった。

駅伝界の都市伝説「ガル高校」

 もう一つ、私が日本で走るケニア人ランナーに興味を持ったきっかけは、三十代以上の駅伝ファンであれば誰しも一度はその名前を聞いたことがある、謎の高校の存在だった。

 箱根駅伝の中継では、選手を紹介する際に、学年や所属学部、ベストタイムといった情報とともに出身高校の名前が紹介される。各選手の出身校を眺めながら、通な駅伝ファンたちは高校時代の先輩後輩対決や、同じ都道府県出身のライバル同士の競い合いを愉しむものだが、ケニア人ランナーの出身校については、別の注目のされ方をしてきた。というのも、多くのケニア人ランナーの出身校が、ある一つの高校に集中していたからだ。

 ガル高校──。

 日本大学で走り、三年時の箱根駅伝(二〇〇九年)でいまだ大会記録として破られていない二十人抜きを達成したギタウ・ダニエルや、同じく日大で活躍したディラング・サイモン、ガンドゥ・ベンジャミン。日大以外でも、拓殖大学に在籍したジョン・マイナやダンカン・モゼはガル高の出身となっている。

 あるいは、日本に渡ったケニア人ランナーの中で最も成功した一人であるサムエル・ワンジルにもガル高が絡んでいる。二〇〇二~二〇〇五年の仙台育英高校在籍時、全国高校駅伝で三年連続区間賞を獲得したワンジルは、卒業後に大学進学をせずトヨタ自動車九州に就職し、二〇〇八年に開催された北京五輪のマラソンにケニア代表として出場して金メダルを獲得した。当時、日本の高校に在籍したランナーが五輪の金メダルを獲得したとして陸上界ではささやかな話題になったが、そのワンジルの経歴にも「ガル高」の文字がある。

 仙台育英高校のホームページには、ワンジルの出身校としてガル高を意味する「Ngaru(ガル)Secondary School」と記されている。Secondary SchoolはHigh Schoolと並んでケニアでは「高校」を意味する単語だ。そのページによると、当時、仙台育英に在籍していたケニア人はワンジルを含めて四人おり、全員がNgaru Secondary Schoolからの転校生だった。そうしたガル高出身ランナーのあまりの多さから、駅伝ファンの間では長らく、ケニア中からエリートランナーが集う陸上競技の超名門高校なのではないか、と噂になっていた。

 ところが、ある時期を境にガル高の出身者がパタリと途絶え、ケニア人ランナーの出身校は、エリート高やシル高など、さまざまな名前に分散するようになった。その突然の変化によって、なぜあれほどランナーを輩出していたガル高出身者がいなくなったのか、そもそもガル高は存在したのかという疑問が、駅伝ファンの間で浮上するようになっていったのである。

 その注目度の高さは、グーグルの検索窓に日本語で「ガル高」と打ち込むとよくわかる。インターネット上の掲示板に「ガル高校応援スレ」という名のスレッドが立ち上げられていたり、Yahoo! 知恵袋などのサイトで「存在するのですか?」と質問するページがヒットしたりする。ガル高はいわば、駅伝ファンたちにとっての都市伝説的な存在になってきたのだ。

 私もまた、その謎に魅せられた一人だった。テレビで駅伝を観戦するたびにガル高の名前を目にし、「一体どんな学校なのだろう」と疑問を抱いていた。なぜこれほど多くの優秀なランナーを輩出できるのか。どのような指導を行っているのか。そして、なぜ突然出身者がいなくなったのか。

 しかし、経済メディアの記者として働いていた頃は、この謎を追求することは現実的に難しかった。二〇一三年に出版社に入社して経済記者としてのキャリアを歩み始めた私は、その後も経済メディアでコンテンツを制作し続けてきた。その中で「ケニアのランナーに興味がある」とは到底言い出せず、会社の業務とは関係の薄いテーマに挑むことは現実的ではなかった。そんな状況が変わる転機になったのは、二〇二四年春にフリーランスのノンフィクションライターとして独立したことだった。自分の時間を自由に使えるようになり、長年抱いていた疑問に正面から向き合えるようになった。そして、私は決意した。ケニアを訪れ、彼らの暮らしに触れ、ランナーたちの素顔を自分の目で「視に行こう」。そして、ガル高の真相を解き明かそう、と。

色彩を帯びる「走り屋」たち

 今回の取材のために、私はケニアを三度訪れ、三十人以上ものランナーと出会い、時間を共に過ごした。

 ケニアの首都ナイロビから車で四時間。道中、野生のシマウマやサルを横目に眺めながら片側一車線のデコボコ道を進み、多くのランナーたちがトレーニングを積む田舎町で、私は冒頭で紹介した箱根駅伝二区の区間記録保持者、エティーリと数日を過ごした。ケニアに帰省中の彼は、箱根駅伝で見せた圧倒的な走りとは対照的に、驚くほどシャイで人懐っこい青年だった。田舎町のバスターミナルで待ち合わせをして、彼の実家にお邪魔した。

 実家では母親と妹の子どもが迎えてくれた。食パンとケニア人が好んで飲むミルクティーをいただきながら、ずっと貧しかったこと、父親とは一緒に住んでいないこと、高校まではほとんど一日一食で過ごしてきたこと、しかしエティーリが日本に進学したことで、立派な家を建てることができたことを教えてくれた。そこには確かに、日本では語られることのない、エティーリと家族の暮らしがあった。

 エティーリのように現在、日本で走るランナーもいれば、かつて日本で活躍した選手もいた。あるいは、いつか日本で走ることを夢見ているというたくさんのランナーにも出会った。

 しかし、その夢を叶えられるのは、ほんの一握りの選ばれし者だけだ。日本で走るケニア人ランナーの背後には、その何千倍もの若者たちが待機している。箱根駅伝で「ケニア人ランナー」として一括りにされていた彼らがモノクロームであるとすれば、ケニアで私の目の前に立っていた青年たちは、一人ひとりが鮮やかな色彩を帯びていた。

 そうして現地のランナーたちと会話をし、メッセージアプリで連絡を取りあい、彼らの個性を理解するうちに、ケニア人ランナーと日本をつなぐシステムの実態も見えてきた。エージェントと呼ばれる仲介業者たちが、ケニアの才能ある若者たちを発掘し、日本の高校や大学、実業団に送り込む。実業団の所属ランナーはもちろん、学生であっても事実上の給料としていくばくかの金銭を受け取り、「仕事」として走る。言わばケニア人ランナーたちは、自らと家族の生計を立てるために走ることを生業にする「走り屋」という職業の従事者たちだ。貧しい家庭に生まれた若者たちが、自らの走る才能に賭けて努力を続け、母国の平均年収の数倍にのぼるような金銭を手にしている現実があった。

 同時に、走り屋たちには影の側面もある。取材を進める中で、彼らの物語を単なる貧困から脱するためのサクセスストーリーとして紹介できない事実にも直面した。例えば、ケニア人ランナーの学歴は必ずしもクリーンではない。日本の大学に進学する際、高校を卒業するか高校卒業程度認定試験に合格する必要があるが、ケニアの貧しい若者たちの中には、高校の学費を払えない者も少なくない。そうした、実力はあるが貧しいランナーたちのストーリーを追っていく過程で「ガル高」の真相に近づくことになった。

 走り屋たちを知ろうとすればするほど、単なるスポーツの話にとどまらない深淵なテーマに辿り着いた。「視えない存在」だったケニア人ランナーたちに光を当てることで見えてきたのは、私たちが普段目を向けることのない日本の姿だった。本書は、日本で走るケニア人ランナーの物語であると同時に、現代日本社会の記録でもある。箱根駅伝という国民的イベントを通して見えてくる私たちの社会の姿は、時として美しく、時として恐ろしい。


「プロローグ」より