3月4日(水)発売の顎木あくみさんの『人魚のあわ恋 秘めた想い、二つ』。
支配的な父と兄から離れて、婚約者の咲弥の家に身を寄せた朝名。距離を縮めた二人の甘いやりとりが楽しめる、第一章の冒頭を公開します!


登場人物紹介

夜鶴女学院の国語教師で、二十三歳。由緒正しい時雨家の次男で庶子。婚約者の朝名のことを大切に想っている。
夜鶴女学院に通う十六歳。人魚の血の娘として家族から蔑まれている。今は婚約者の咲弥の家に身を寄せている。

イラスト:花邑まい

 昼下がり。梅雨の近づく初夏の日が、花苑(はなぞの)に差している。

 深緑の底が透けるほどに澄んだ水を湛え、中心には水面に浮かぶようにして(ほこら)が立つ池。それをぐるりと取り囲む椿の木は青々しく生い茂り、赤や白の花を季節外れに咲かせている。ここは――『人魚の花苑』。数多(あまた)の女人たちの遺灰が眠るその場所は今、明るい日差しに照らされ、きらきらと白く輝くようであった。

 ところが、天水朝名(あさな)はそれらには目もくれず、しゃがみ込んで、椿の木のそばに並べた植木鉢を見ていた。

「ふふ。昨日よりちょっと大きくなってる」

 濃い茶色の土から、青々とした小さな朝顔の芽がちょこん、と頭を出している。

 先日、咲弥(さくや)からもらった自分と同じ名の花の種を、朝名はさっそく植木鉢に()いた。

 蒔いてすぐは本当に芽が出るのか、不安半分、緊張半分だった。けれどその分、実際に芽が出たときの喜びは一入(ひとしお)。毎日せっせと水をやり続けていた甲斐があるというものだ。

 つい、口許がほころんでしまう。

「植物を育てるのって、こんなに楽しかったのね」

 ずっとこの人魚の花苑の椿を世話してきたが、一から自分で植物の面倒を見るのは初めてだ。

 芽が出ていないか、どれだけ育ったかと毎日様子を見に来るだけでも心が躍る。どんなふうに花が咲くだろうと、暇さえあれば想像している。

 朝名にとって、ずっと癒しの場所だった――人魚の花苑。

 今はまた違う楽しみのある場所として、かけがえのない大切な場所である。

 水の入ったブリキの如雨露(じょうろ)をかたわらに置き、朝名がしばらく植木鉢を眺めていると、がさり、と椿の木を()き分ける音がした。

「先生」

 朝名は立ち上がって、花苑に入ってきた人物に駆け寄る。

 その人は、すらりとした長身で三つ揃いのスーツを完璧に着こなし、長い滑らかな髪を蝶の意匠の(かんざし)で結った――見るだけで惚れ惚れしてしまうような美丈夫。朝名が通うこの夜鶴(よつる)女学院の国語教師であり、朝名の婚約者でもある、時雨(しぐれ)咲弥である。

 咲弥は朝名を認めると、相好を崩した。

「先生。今日は一緒にお弁当を食べられるんですか?」

「うん。試験の採点とか、まだ仕事が残ってるんだけど。ちょっと息抜きにね」

 そう言って肩をすくめる様でさえ、舞台役者のように華がある咲弥に、朝名は内心どぎまぎする。彼と知り合ってまだ間もないとはいえ、かなりの時間をともに過ごしているのに、ちっとも慣れない。

 ただし、それを表に出す朝名ではない。ときめく気持ちを綺麗に押し隠して、微笑んだ。

「それは、お疲れさまです」

 と、朝名の表情を見た咲弥が、「ふむ」と真面目な顔をする。

「今、何を隠したのかな?」

「え?」

「今、笑顔で何か隠したでしょう。いい加減、僕も君の表情をいろいろと見分けられるようになってきたんだよね」

 朝名は微笑んだまま、固まった。

 まさか、ばれているなんて。いたずらに成功した子どものような、にやり、とした顔を咲弥から向けられ、冷や汗が滲む。

 朝名は無意識に一歩、後退する。沈黙の中にブーツで草を踏む軽い音がよく響いた。

 だが、咲弥はこういう時にはぐらかすのを許してくれない性格だし、腹の中も……少し黒いのを、朝名は知っている。

 咲弥が黒い微笑みを浮かべ、徐々に朝名に迫ってくる。

 二人揃って微笑み合っている、傍から見ればそんなふうに思えるかもしれないが、朝名の内心はそんな穏やかなものではない。

「せ、先生。なんのことでしょうか。私、何も隠してなんて……」

「だめだよ、朝名さん。婚約者の僕に隠しごとなんて。さあ、本当は何を思ったのか、言ってごらん」

 ますます笑みを深めて凄んでくる咲弥に、朝名は観念して白旗を挙げるしかなかった。しかし、真正面から口にするのは恥ずかしく、視線を斜め下に下げる。

「……せ、先生が」

「僕が?」

「先生がとっても、その、男性として素敵で……と、ときめいてしまいました」

 そう告げると同時に、かあ、と頬が熱くなる。そんな朝名を見た咲弥は、驚いたように目を瞬かせた。

「……ときめく? ええと、さっきの、いったいどこに?」

「えっ……それは、その」

 そこまで言わせるのか、と朝名は熱を持った顔のまま動揺する。もしや、これも咲弥の策略かと疑ったが、彼は心から不思議そうにしている。

 もうどうしようもない。いや、どうにでもなれ。朝名が半ばやけになって、叫ぶように答えた。

「先生はっ! い、いつだって、何をしていらっしゃったって、全部素敵なんです! だから、ど、どことか、そういうことじゃなくて……先生の姿を見るだけで、どきどきしてしまいます……」

 最初は勢いのあった声が、おのずと尻すぼみになる。頭からしゅう、と蒸気が噴き出しそうなほど、恥ずかしくて全身の温度が上がった。

(こんなこと、言うつもりなかったのに)

 こうして素直に気持ちを打ち明けられるようになったのは、咲弥との関係性が変わったからにほかならない。

 咲弥は朝名のそばを決して離れず、朝名も咲弥から離れる気はもうない。絶対にこの関係を裏切らないと、互いに運命をともにする覚悟を決めたから。ただの婚約者同士とも違う関係の中で、朝名は真っ直ぐな言葉を口にできるようになった。

「そ、そうなんだ。全部……」

 恥ずかしさからうつむいた朝名の頭上に、咲弥のそんな声が降ってくる。

 おそるおそる目線を上げると、咲弥はほんのりと両頬を赤く染め、照れ笑いのようなものを浮かべていた。

「ふふ」

 きっと、咲弥は何か深刻なことを朝名から言われると思っていたのだろう。ところが、思いがけない内心を打ち明けられて照れるしかない――そんな咲弥の状況を察して、朝名はつい笑った。

 眉尻を下げる咲弥に、胸が温かくなる。

「先生、休み時間は有限ですから。どうぞ休んでいってください」

「そうだね」

 朝名が促すと、ようやく気まずさから解放されたらしい咲弥はうなずく。二人はすっかり定位置となった池のほとりに、並んで腰を下ろした。

 少しぬるい微風が、朝名と咲弥の髪をかすかに揺らして吹き抜けていく。椿の木が葉擦れの音を鳴らし、池の水面に細波を立てた。