2月6日(火)発売の顎木あくみさんの『人魚のあわ恋』。
幼い朝名の心に刻み込まれた運命の出会い……登場人物紹介と序章を全文公開します!
登場人物紹介
イラスト:花邑まい
序章
八年前のあの日のことを、今でも鮮明に思い出せる。
八歳だった朝名は家の近所の、大きな楠の根元に蹲って泣いていた。
まだ日が昇って幾刻も経っていない、初夏のある午前。目に鮮やかな露に濡れた新緑も、ひやりと爽やかな風も、真っ黒な朝名の心に染み入ることはない。
『いい勉強になったろ。お前もいつかそうなるんだ』
兄の冷ややかなまなざしに、がつんと頭を殴られたようだった。あまりの衝撃に、気づけば家を飛び出していた。
「ちがう……ちがうの。わたしは」
すでにたっぷり泣き腫らした目から、なおも次々と涙があふれる。朝名は泣きじゃくり、ひたすら自分の左手首を掻きむしった。
気色の悪い、鱗に似た赤い痣。
左の手首から手の甲まで、紐が巻き付いたように螺旋を描いて、白い皮膚に薄らと浮かぶ。
この痣が朝名の手首に浮かんでから、家族は変わってしまった。
父と兄は朝名を「化け物」と呼んで蔑み、物のように乱暴に扱い、母はその瞳に朝名を映さなくなった。
こんな痣があるから、だから、こんな痣さえなければ。
「やだ、やだ、やだよ」
吐きそうなほどむせび泣きながら、朝名は痣を消そうと必死に爪で手首を引っ掻く。やがて、皮膚の痣のある箇所から真っ赤な鮮血が滲んで溢れた。
化け物なんかじゃない。化け物になんか、なりたくない。
まだだ、まだ、もっと、もっと完全に、治らないくらい深く、深く傷つけて、痣を消さないと。
これさえなくなれば、また元に戻れる。父と兄はただ欲深いだけではない優しい人たちに戻り、母は朝名を無視せず、また名を呼んでくれるはずだ。
きっと、きっとそう。だって、そうでなければ――。
肌が裂ける痛みに冷や汗が流れ、心臓もばくばくと鳴っている。すでに左手首は斑に血に濡れて、掻きむしる右手の爪までも赤く染まっていた。
「消えて、お願い。消えて、消えて、消えてっ」
悲鳴のように叫び、しゃくり上げたとき、ふと、そばに人の影が差した。
「君、ひどい傷じゃないか……!」
聞き慣れない、若い男の声。驚いて目線を上げると、学生服を纏った長身の青年が蹲る朝名を、目を丸くして見下ろしている。
(どうしよう)
知らない人に見られた。絶対に、変に思われる。
呆然とする朝名に、青年は「ちょっと待っていて」と言い残し、慌てて走り去る。しばらくして戻ってきたとき、彼の手には濡れた白いハンケチがあった。
「見せて」
青年は躊躇いなく朝名の血まみれの左手をとる。
「や……っ」
触れられたくなくて、朝名は咄嗟に手を引いた。その拍子、誤って青年の手を引っ掻いてしまう。
「あっ、ご、ごめんなさ」
「気にしないでいい」
青年は少しも痛がったり、朝名を責めたりせず、濡れたハンケチで朝名の傷の血を拭っていく。その真摯な表情と、朝名を気遣う優しい手つきに、抵抗する気持ちも萎んでしまった。
家族から向けてもらえなくなった親身な優しさを、拒絶できずに。
血をひと通り拭い終わった青年は、持っていた鞄の中から、鈍色の平たい缶に入った塗り薬を取り出し、朝名に見せる。
「これを塗るけれど、ただの膏薬だから、安心して」
家で見たことがある薬だったので、朝名は素直にうなずいた。
「まったく、今日ほどドジな母親に感謝したことはないよ。おかげでこうして君を手当できるから」
青年は引っ掻き傷だらけの手に薬を塗り終わると、今度は真っ白なガーゼをそこに当て、丁寧に繃帯を巻いていく。
朝名は空っぽな心のまま、彼をただ見つめていた。
涼しげな目元と薄い唇。制帽からこぼれた髪は墨のように黒く艶やかだ。しかし、最も目を引いたのは簪で括った長い後ろ髪。
(男の人なのに……)
今どき、髪を結った男性など舞台の上以外で見たことがない。おまけに、その簪は女性が好む蝶の飾りがついた美しい意匠である。
奇妙に感じつつ、けれど、青年の整った細やかな面差しに華美で繊細な簪がたいそう似合って見える。
(きれい)
見惚れているうちに、手当は終わっていた。青年の「これでよし」という呟きで、朝名は我に返る。
「痛かったろう。しばらくは沁みるかもしれないけれど、大事にするんだよ。目もこんなに腫らして――」
青年の細い指先が朝名の赤く腫れた目尻をそっと撫でる。
「……いいの。わたしはもう」
首を横に振った朝名に、青年の表情が悲しげに曇った。
「君……」
青年は言いかけて、再び鞄の中を探りだす。ガーゼに繃帯、膏薬に次いで、鞄から出てきたのは、黒いレースの手袋だ。
モガが身に着けるような、ハイカラで品の良いその手袋を、青年は朝名の右手と繃帯を巻いた左手とにそれぞれ嵌めてくれる。
そうして、美しく微笑んだ。
「まだ少し大きいけれど、母より君のほうが似合う。だから、あげる」
やや躊躇いがちに朝名の頭に置かれた青年の手は大きくて、温かい。止まったはずの涙が、またこぼれそうになる。
「泣かないで。……いや、我慢するのはよくないから、たまには泣いてもいい。でも、笑顔が一番だ」
「……笑顔?」
「そう。笑顔でいる人のところに、幸せはやってくるんだって。受け売りだけれど。君も、悲しいときは泣いて、そのあとはたくさん笑うといい」
青年の励ましはどこかぎこちない。でもその不器用さが朝名の心になぜか強く響いて、素直にうなずいた。
本当は笑顔などで幸せになれないことくらい、そのときの朝名にもわかっていた。
けれど、信じてみたかったのだ。唯一、朝名に優しくしてくれた、彼の言葉を。