由原かのんさんの新作『おりせ人形帖』は、江戸時代の人形町を舞台に、人形の声が聞こえる少女・おりせの成長を描いた連作短編集です。

 魂が宿った人形たちの声が聞こえる不思議な力があるおりせ。人形師の父・貝助と弟・清太郎、継母のおすまと暮らしています。おりせは小さいころから人形の声を聞くことができましたが、周囲からは理解されず、ときに孤独を感じることもありました。そんなおりせが気持ちを打ち明ける相手は、人形浄瑠璃の蝉丸を模した人形と、継母の亡き3歳の娘であるおちよの魂が宿った人形です。

 そして年頃のおりせは、嫁ぐのか、婿を取るのか、あるいは人形を作る職人を目指すのか、決断を迫られます。恋愛は苦手と感じているおりせが選ぶ将来とは…。

 本作の第1章「夜々の空蝉」より、冒頭をご紹介いたします。


夜々(よよ)空蟬(せみ)

 木っ端の中に顔が隠れているんだよ。俺はそいつを彫り出すだけだ――と、父が小刀を手に取り、桐材の角を勢いよく削ぎ落とした。あんなに手荒く削って、隠れた顔が傷付きゃしないか。息を詰めて見守るうちに、手の動きが細やかになっていく。やがてふっと息を掛けると、細かな桐粉(きりこ)が宙に舞った。(まげ)を高々と結い上げた美少年のかしらがきりっと見得を切る。

 おりせは飽かずに父の手先を見つめていた。仕事の流れは心得ている。彫り上がったかしらは砥草(とくさ)で磨きを掛けて、白い胡粉(ごふん)をすっぽりと掛ける。胡粉が乾いたら顔を描く。目鼻立ちも大事だけれど、髪の生え際には特に気を遣う。細筆で一筋ずつ髪を描いて仕上げると、面差しに(なま)めかしい色香が匂い立つ。

 おりせの指が(うず)いた。

 あたしも人形を作りたい――と、心が叫ぶ。

 だが父は、六つのおりせにもわかる言葉ではっきりと言ったのだ。

「女だって人形は作れる。でもな。飯を炊いたり掃除したりで、家の仕事が忙しいだろ。人形師は日がな一日人形と向き合わなきゃならん。女にはその暇がねえ」

 だから女は人形師になれない、と。

 おりせは思いを吞み込んで仕事場に背を向けた。暖簾(のれん)(くぐ)ると、そこはこぢんまりした人形屋だ。屋号はなぜか蛤屋(はまぐりや)という。板の間に並ぶ色とりどりの衣装を(まと)った浮世人形が色気を競っている。表の通りには芝居町から溢れ出た人の波が流れていく。

 この界隈(かいわい)を人は人形町(にんぎょうちょう)と呼ぶ。(あやつ)り人形の職人もいれば、父の貝助(かいすけ)のように人の姿をありのままに写した人形を(あきな)う店もある。蛤屋に足を運ぶ客の多くは、贔屓(ひいき)の役者に似せた人形を注文しに来る。贅沢な人形を(あつら)えるのだから、金に糸目をつけないお大尽(だいじん)ばかりだ。

 だからと言って、人形を眺めるだけの冷やかしを追い払いはしない。いま店先から人形を見上げているのは、おりせと同い年ぐらいの男の子だ。太い眉毛のせいで上目遣いの眼が雄々しく見える。だが口元はだらしなく緩んで、桃色の唇からよだれが一筋(したた)った。

 いやだ、汚い子――おりせは思わず顔をしかめた。

「ここにいたのか」と、通りから男の声が飛んできた。「まっすぐ前を向いて歩けと言っただろうが、こののろまっ」

 父親なのだろう。子供の襟首を(つか)んで、そのまま乱暴に引っ立てていく。おりせが店先まで出てみると、男の子は引かれながら名残惜しげに店を振り向いた。ほんの一瞬目が合う。

 男の子が見とれていた若衆(わかしゅ)人形はとびきり出来がいい。心惹かれて当然だ。おりせは父の腕前を誇らしく思った。それなのに後を継げない。この身はなぜ女なのだろう。

 おりせは若衆人形に顔を寄せた。若衆は男だけれど、芝居では女を演じる。御贔屓の旦那に連れられて町を練り歩く時も美女と見紛うばかりに装っている。

「ねえ。男なのに、どうして女の格好しちゃうの」

 “これが我らの仕事ですからね”と、人形の声が返った。

「ふうん。何だか勿体(もったい)ないね」

 帳場に座っていた店番の女が首を(かし)げた。元は武家の女で、名はおすまという。通いで店を手伝いに来るようになってから三年ほど経つ。気の毒なことに、浪人の御亭主を亡くしたばかりだった。笑みに陰りがあるのは、そのせいかもしれない。

 おりせの耳は壁際に座る人形の声を捉えた。父が昨日仕上げたばかりの抱き人形だ。

「この子、おすまさんが『かか様』なんだって」と、童女の人形を抱き上げ、おすまの膝に乗せる。

「もう寂しくないでしょ」と、おりせは言い添えた。

 一瞬戸惑ったおすまが合点したように(うなず)いた。

「お人形遊びをなさりたいのですね」と、抱き人形をあやして見せた。頰に柔らかな笑みが浮かぶ。慈愛に満ちた横顔を見るうちに、おりせは己の母が恋しくなった。

「二階に行ってくる」と、おすまに断ってから帳場裏の階段を上がった。二階には狭い廊下に面して座敷が二間ある。おりせは手前にある三畳間の前に立った。

 おっかさん、起きてるかな――と、気遣いながら(ふすま)をそっと開ける。

「おりせかえ」

 床の中から、かぼそい声がした。

 母が身体を壊したのは、お産が重かったからだと聞いた。おりせを生む前は元気に店を切り盛りしていたと、裏長屋に住むお産婆さんが教えてくれた。

 白く濁った目を細めて、母が(まぶ)しそうにおりせを見た。

「おっかさん。目が見えないの」と、おりせは母の枕元に座った。

 母が枕の上で首を振った。「ぼんやり霞むだけ。おりせの顔はよくわかるよ。おりせのお祖母(ばあ)ちゃんは目が悪かったから、おっかさんは似ちゃったのかもしれないねえ」

 祖母の人柄はよく知らない。明暦(めいれき)の大火で亡くなったとだけ聞かされていた。

「お祖母ちゃんは目が悪かったのかえ」

「そう。何も見えなかったんだ。でも耳だけは人一倍良かったよ。他の誰もが気付かない音や声が聞こえるって、よく言ってた」

「あたしは目も耳もいいよ。おとっさんの(こしら)えたお人形が(ささや)く声も聞こえるもん」

 父が手掛けた人形はお(しゃべ)りだが、余所(よそ)の人形はだんまりだ。それも父の腕がいいからだと、おりせは思っている。

 母が懐かしそうに口元を緩めた。

「おりせも人形の声が聞こえるのかえ。おっかさんも子供時分には店の人形とお話ししたよ。でも大人になったら、聞こえなくなっちゃった」

「そうなんだ」

 人形の声が聞こえなくなったり目が霞んだりするのは、みな病のせいだろうか。

「おっかさん、ごめん。あたしを生んだせいで病になっちゃったんだよね」

 母のやつれた顔が曇った。

「それは違うよ。おりせのせいなんかじゃない。おっかさんはね、おりせが元気なら病なんて平ちゃらさ。だから、おりせは元気一杯に生きるんだよ。そうしたら良いお嫁さんになれる。きっと幸せになれる」

「あたしはお嫁さんじゃなくって、おとっさんと同じ人形師になりたいんだ」

 父の後を継ぎたいと言えば、母が喜んでくれると思った。

「ごめんね、おりせ。男の子に生んであげられなくって。でもね、おっかさんみたいに人形師のお嫁さんになれば、旦那さんが拵える人形の衣装を()ってあげられるよ」

 おりせは日ごとに寝嵩(ねがさ)が減っていく母の夜具を見た。人が寝ているとは思えないくらいに平べったい。徐々に母が消えゆくようで怖くなった。

 母がおりせの手を取って、ぎゅっと握った。力のこもった温かな手だ。

「当たり前に生まれて、当たり前に生きていける。その有り難さを忘れちゃいけないよ。わかったかえ、おりせ」

 そう(さと)すように言うと、目を伏せて息をついた。

「おすまさんを呼んできてちょうだい。頼みたいことがあるから」

「何を頼むの。あたしが伝えてあげるよ」

「ありがとう。でも、二人きりで話したいから呼んできておくれ」

「わかったよ」と、おりせは立ち上がった。きっと母も当たり前に元気になる。そう信じた。

 梅がほころび、江戸の城下が春風に和らぐ。そんな季節に母は逝った。二階の三畳間は母の床があった所だけ畳が黒ずんで見える。

「おっかさん」と、おりせは呼び掛けた。

 目を閉じて声が返るのを待つ。路地裏ではしゃぐ子供たち、雀のさえずり、いつもと変わらぬ音の景色が広がっていく。だが、そこに母の声だけがなかった。

 心の穴はいつまでも埋まらない。だが暮らしには困らなかった。おすまが以前にも増して家の仕事を片付けてくれたからだ。夜はおりせが寝入るまで添い寝して、夜明け前にはもう台所にいる。いつ家に帰っているのだろう。

 やがて季節は巡って秋になった。目が覚めると、薄暗い三畳間は雨音に囲まれていた。夜具を片付けたおりせは襖を開けた。すると目の前を黒い影が(ふさ)いでいる。はっと息を吞んだが、よく見れば父だった。寝間着姿のまま階段に座り込んで、精魂尽きたように項垂(うなだ)れている。階下から飯を(かし)ぐ匂いが上ってきた。

 父が物憂げに顔を上げた。

「なあ、おりせ。おすまさんは好きか」

「うん。おとっさんも好きだろ」

 答える代わりに父が力なく笑う。

「おっかさんを忘れたんじゃねえ。それとこれとは別の思いだ。おまえにもわかるよな」

 そんなやり取りがあって半年後、母の一周忌を済ませてから、父はおすまを後添いに迎えた。家族の形を取り戻して、生みの母が生きていた頃よりも家の中が活気付く。その年の内には、おりせに腹違いの弟が生まれて家内はますます賑やかになった。

「いい子だな、清太郎(せいたろう)。器用そうな指をしてるなあ。腕利きの人形師になれよ」

 父が赤子をあやしながら、宝物を愛でるように目を細める。おりせは我が身が(うつ)ろになっていくようで切なくなった。弟は生まれた時から人形師となる道を約束されているのだ。人形屋の後継ぎとして生まれ、父の心を()っさらっていった弟が(ねた)ましい。

 おすまが弟に乳を含ませている間、おりせは帳場に座って店番をした。暖簾の裏から赤子をあやす子守歌が聞こえてくる。帳場の棚には、おすまを母と慕うあの抱き人形が置いてあった。花模様の赤い振り袖を着て、可愛らしいのにずっと売れ残っている。眼差しがきつくて怖いと、客には不評だったからだ。

「早く売れるといいね」

 おりせが話し掛けると、幼い声が頭の中に伝わってくる。人形の声は揺らぐように響いて、少々聞き取りにくい。

 “何処(どこ)にも行きたくありませぬ。かか様とおりせと一緒におりまする”

 いつもは“かか様”としか言わないのに、今日はずいぶん長々と喋る。きっとこの子も寂しいのだと、おりせは心が響き合うように感じた。

「あのね。おまえのかか様は、うちのかかさんになったんだよ」

 おりせは死んだおっかさんを忘れまいと、継母のおすまをかかさんと呼び分けていた。

 “存じております。私はすまの娘で、ちよと申します”

「へえ、そうなんだ。でも、どうしてお人形の中にいるの」

 “かか様の側にずっとおりました。でも気付いてくれませぬ。お人形に宿れば、おりせが言葉を伝えてくれまする”

「そういうわけか」と、おりせは頷いた。よくわからないが、頼りにされたらしい。弟が生まれてから、家族の邪魔者になったように感じて悲しかった。それだから、自分ならではの役目を与えられて心が弾んだ。

「何か伝えてほしかったら言ってね。年は幾つなの」

 “ずっと三つでございまする”

「そんなら、あたしより四つ年下だ。だけど、おちよ。かかさんが清太郎ばっかし抱っこしてるから、寂しいだろ」

 おすまの子守歌がつと途切れた。おかげで、おちよの声がよく聞き取れる。

 “私は清太郎の姉でございまする。もう赤子ではないので、抱っこはねだりませぬ。おりせも姉様らしくなさいませ”

「おちよも清太郎の姉様なら、あたしらは姉妹(きょうだい)だね」

 そう言って振り向くと、弟を抱いたおすまが立っている。虚を突かれたように眼を見開いて、おりせと抱き人形を交互に見た。

「おりせ。今、おちよと呼びましたね」

「うん。おちよはずっと三つなんだって」

 おすまの瞳が(うる)んで揺れる。今にも涙がこぼれそうだ。

「かかさん。あたし、何かいけないことを言ったかな」

「いいえ」と、おすまが(はな)をすすって、おりせの(かたわ)らに腰を下ろした。右手を伸ばしておちよを取り、腕の中の清太郎と並べて抱く。

「一度は独りぼっちになってしまったのに、いつの間にやら三人も子を授かっていたと気付きました。なんて幸せなのでしょう」

 おりせは清太郎の寝顔とおちよを一、二と指差して数え、最後に己を差して三と(つぶや)く。

「あたしもその勘定に入ってるのかえ」

「もちろん。おりせも私の可愛い娘ですよ」

 よかった――安堵の息をついたおりせに、おすまが顔を寄せた。

「それでは、おりせ。もう大人にはなれぬおちよの代わりに、おまえは立派なおなごになりなさい。手習いも大分進みましたから、今日からは敷島の道を学びましょう」

「敷島の道ってなあに」

「和歌の修練です。人の心を思いやるために古人の詠んだ歌を沢山覚えなさい。それから、身を守るために武芸も伝授いたしましょう」

「武芸」おりせは鸚鵡(おうむ)返しに声を弾ませた。「かかさんは武芸も出来るのかえ」

「ええ。娘の頃は巴御前(ともえごぜん)渾名(あだな)されたくらいです。人は平凡に過ごせれば、それなりに幸せです。でも一度や二度は必ずつまずきます。そんな時に役立つのが知恵と勇気、そして健やかな身体です。女であっても凜々しく生きるのですよ」

 凜々しく――おりせはその言葉の響きに強く惹かれた。

 これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂(おうさか)の関――ここが逢坂と名のある関所なのか。旅立つ者も帰る者も、顔見知りも赤の他人も、皆ここで巡り逢ってはまた別れていく。これは蟬丸(せみまる)という人が世の無常を詠んだ歌だよ。恋歌よりも心に沁みてくる。恋はよくわからない。男はどうも苦手なんだ。

 おりせは文机(ふづくえ)に頰杖を突いた。人には言えぬ()(まま)な思いがある。そんな思いは人形にだけ打ち明けてきた。子供の頃から変わりなく、おりせの耳は人形に宿った者の声を捉える。父と弟は笑い飛ばすが、母のおすまだけは信じてくれた。おちよが来てくれたからだ。おちよは母が先夫との間にもうけた一人娘で、憐れにも三歳で命を落としたのだという。

 おちよが宿った抱き人形は、結局売れ残って弟の玩具になった。顔に手垢が付いているのは、その当時の名残だった。ただ着物だけは小綺麗で、今も肩揚げの付いた小菊模様の四つ身を纏っている。季節が変わるごとに母が着せ替えているのだ。

「二十にもなると、嫁に行かなきゃならないんだよ」

 “私は今でも三つの(わらべ)でございまする。二十のおりせが(うらや)ましい”

「童のまんまが楽だよ」

 先日も見合い話が来たが、意外にも父は断った。断ってくれたのは有り難い。だがその時のやり取りで、父はおりせに婿を取る腹積もりだと知れた。

「男は要らない。どうにも気味が悪くってさ」

 娘盛りを迎えた頃から幼馴染みだった男どもの目付きが変わった。手を握り、顔を寄せてくる奴もいた。

「どうして誰も彼も色恋に夢中になるんだろう。そんなに恋っていいのかえ。恋歌は山ほどあるけど、恋しい思いばっかしで、恋する訳なんて一つも書いてないし」

 恋を知らぬおりせには、恋の和歌は今一つ心に響かない。

「恋よりも、常ならぬ世の空しさを詠む蟬丸の歌はじんと胸に来たよ。韻を重ねて()(うた)のように聞こえるけど、意味する所は深いんだ。今日はね、その蟬丸さんにお目文字叶うんだ」

 みしみしと階段の(きし)む音がした。半開きの襖の陰から母の顔が覗く。

「おとっさんが出掛けると言ってますよ」と、階下をちらりと見たおすまが声を潜めた。「おちよがまた何か申しましたか」

「三つのまんまで残念だって」

 おすまが苦笑を浮かべて人形を見た。

「おちよも生きていたら、おりせと同い年です。人形に宿ってしまったのは、大人になれぬ心残りもあったのでしょう」

 二階から階段を下りるとそこは通り土間で、おりせは草履(ぞうり)を突っ掛けた。土間の向こうに板敷きの仕事場がある。父が土間から仕事場の職人にあれこれ言い付けている。十年前に弟子入りした金吉(かねきち)(しき)りに頷き、その隣では弟の清太郎が()(ばち)で胡粉を擂っていた。今のところ蛤屋の人形師は父を含めてこの三人だ。弟の方はまだ半人前だが、金吉は腕がいい。父も頼りにしているようで、誂え人形の幾つかは金吉に仕上げを任せていた。

 おりせに気付いた金吉が気まずそうに目を伏せた。

 何だろう――と、おりせは首を傾げた。

 振り向いた父が顔をしかめる。「何だ、おりせ。その髪は何とかならんのか」

 おりせは髪に手をやった。長い髪を(こうがい)で巻き上げ、頭のてっぺんに差してある。ちゃんと角繰(つのぐり)と名のある髷の形だ。

「前髪も後ろの(たぼ)もふわりと膨らませろ。引っ詰めちまったら色気がねえぞ。おすま、結い直してやってくれ」

 母が呆れ顔になる。「あら、おりせには似合っておりますよ。それに結い直していたら、操りに遅れてしまいます」

 父が不平を漏らす前に、おりせは土間を抜けて店先に出た。雲一つない秋空を見上げて心を躍らせる。今日は父と一緒に向かいの堺町(さかいちょう)へ人形操りを観に行くのだ。近頃流行(はや)りの土佐浄瑠璃で、名題(なだい)は『蟬磨呂(せみまろ)』という。

 通りに出てからも父はうるさい。藍染めの小袖(こそで)に合わせた灰色の帯が地味で細すぎる、そのくせ歩幅が広すぎる。もっと小股で歩けと、後ろからいちいち指図する。

「小太刀の稽古なんぞするから、でかく育っちまって。出来損ないの若衆みてえだぞ。こらっ。親を(にら)むんじゃねえ。流し目の一つでもしてみせろ」

「あら、こうですか」

「馬鹿。そいつは藪睨(やぶにら)みっていうんだ」

 芝居小屋の建ち並ぶ堺町は凄まじい込みっぷりだった。人形町から目と鼻の先にある浄瑠璃座に辿(たど)り着くのでさえ、人に揉まれてえらい難儀だ。

 小屋の木戸口にいた顔馴染みの呼び込みが「おや、貝助さん。娘さんとお揃いで」と愛想良く笑う。父の芝居通いは楽しみ半分、仕事半分だった。此度(こたび)の操り芝居の主役は、父がかしらを作ったのだ。

「おかげさまで、若い娘に蟬丸が人気でござんす」

「そりゃ良かった。今日はじっくりと拝見するよ」

 世話になった御礼と、二人は桟敷(さじき)に通された。露天の土間は込み合って、心持ち女客が多い。幕開きまであと少し、小屋の者がちょん、ちょんと小さく拍子木を打って回る。

 おりせは傍らの煙草盆(たばこぼん)を手に取って父に目を向けた。

「一服するかえ」

 頷いた父がふっと笑みを浮かべた。

「声だけ聞くと、お(はつ)と話してるみてえだ。そっくりになりやがって」

 お初は死んだ母の名だ。煙草盆を引き寄せた父の横顔が一瞬陰る。

「それに引き換え、清太郎は俺には似てねえ。言いたかねえが、ありゃ不器用だ」

 弟は六つの頃から父の仕事を手伝っている。かれこれ八年も修業している勘定だ。そのわりには仕事がのろい。ようやく仕上げても、父が手を入れないと形にならなかった。

 父が紫煙をくゆらす。煙が目に染みたのか、思い切り顔をしかめた。

「この先、あいつ一人で店を背負うのは荷が重すぎる。だからよ」

 気を持たせるように父が一息置いた。おりせは思わず身構える。

「おまえに婿を取って、家に残ってもらいてえんだ」

 とうとう来た。近いうちに父が縁談を持ち出すだろうと思ってはいたが、今ここでか。

「そんな話を、何だって今するんだえ」

「二十になれば、年増だぞ。のんびりしてられねえ。俺は金吉を婿にしようと思ってる」

 ぎょっとして、おりせは父を見た。この十年で慣れ親しんだ金吉の顔が目に浮かぶ。鼻の下の大きな黒イボがかなり目立つ。面構えはともかく、随分と近場で婿を選んだものだと呆れ返った。

 父が真顔で二服目の煙を吹いた。

「あいつは出来がいい。ちょっと一本気すぎるが、その分まめな男だ。もう金吉には話してあるから、あとはおまえの心次第だ」

 なるほど――と、おりせは合点がいった。出掛けに見せた金吉の気まずそうな顔はそのせいだったのか。しかし合点がいかない所もある。

「でも、あの人は浅草(あさくさ)にいろがいるんだろ」

「そいつは岡場所(おかばしょ)の女だ。先日も金吉の留守に使いを寄越したが、娘の婿になる男にもう付き纏うなと引導を渡しておいた」

 おりせはちくりと胸が痛んだ。人の恋路を断ち切ってまでも嫁がねばならぬのか。

「余計なお世話じゃないのかえ」

「いくら馴染んでも女郎とは添えねえよ。独り身だから女を買うのは仕方ねえ。身を固めれば行かなくなるもんだ」

「そんなもんかねえ」

 拍子木が高らかに鳴った。いよいよ幕開きだ。父がぽんと煙管(きせる)の灰を落とす。面倒臭い話は後にしておくれと、おりせは座り直して舞台に目を向けた。

 背を見せて立つ貴人、あれが蟬丸なのか。人形遣いは舞台下から人形を操る。客から見えるのは人形だけだ。三味線に乗せて土佐節の語りが始まる。語り手は今をときめく土佐少掾(とさのしょうじょう)。まろやかな声を揺るがせて、蟬丸の人となりを語り出す。

延喜(えんぎ)第四の皇子をば蟬丸の大君とて、御容貌(ごようぼう)世に優れ、天の成せる麗質(れいしつ)は及ぶも及ばざりけるも恋い慕わぬはなかりけり。

 蟬丸がゆるりと正面を向く。烏帽子(えぼし)を被り、若葉色の地に銀箔で文様を置いた狩衣(かりぎぬ)姿だ。土間の客が感嘆してざわめく。それを聞いた父が安堵の息をつく。父ほどの人形師でも人の評判は気になるらしい。おりせも惚れ惚れと蟬丸を眺める。仕事場でかしらだけは目にしたが、こうして衣装を纏った姿はまた一段と清々(すがすが)しい。

 さて、物語が進んでいく。時の帝の第四皇子、蟬丸君は琵琶(びわ)の名手で大層美しい。その蟬丸を恋い慕うのは、博雅三位(はくがのさんみ)の一人娘いろは姫だ。姫は恋の成就を北野天満宮に祈願する。天神様のお引き合わせか、天満宮境内で巡り合う二人。姫の恋心を知った蟬丸だったが、その返答がひどくつれない。

〽まろは密かに人知れず、一生涯がその間、左様の道は一筋に固く断たんと(かね)てより深き念願そうらえば、此儀(このぎ)においては許さしめ、思い留まりたまわるべし。

 生涯色事には身を染めぬと神に誓っている、だから勘弁しておくれ――おやまあ、何て無垢な男だろう。(ちまた)の好色野郎とはえらい違いだと、おりせは身を乗り出した。

〽左様のこととは存ぜずして、かく年月に身を砕き、心尽くせし甲斐もなく、この上は中々に生きてありても詮もなし。

 いろは姫が思いの(たけ)を言い募る。かくなる上は命を絶つ。今生では結ばれずとも、来世にはきっと契りを交わす。何度死んでもこの恋を諦めるものか――おりせは息を吞む。女がこれほどまでに己の心をはっきり語るとは。姫君の思いの強さが小気味よい。

〽何ほど念願あればとて、つれなく申せば目前に人の命を失うなり。力及ばずこの上は御心に従わん。

 姫の一途な思いを蟬丸が受け入れる。女の願いに背を向けず、その身を思いやる優しい男だ。蟬丸を見るおりせの目に熱が籠もる。

 だがしかし、二人の恋路に影が差す。左大臣の時平(しへい)がいろは姫に横恋慕したのだ。皇子と大臣が恋敵(こいがたき)となれば、(まつりごと)に差し障る。心痛のあまり(めし)いた蟬丸は都外れの逢坂の関に隠れ住む。粗末な衣を身に纏い、(ひな)びた藁屋(わらや)で独り琵琶を奏でる日々が空しく過ぎゆく。

 目を伏せた憂い顔の蟬丸が痛ましい。それが女心を惹き付ける。ああ、舞台に駆け寄って慰めたい寄り添いたいと、おりせは両手を揉み合わせた。

〽いろはの前、蟬丸君の御事を露忘れさせ給わずして、よしや忍ぶに()えばこそ、その逢坂とやらんまで訪ねゆかんと思い立つ。

 そうだよ。この男のためならば、あたしだって駆け付ける。おりせは大きく頷いた。

〽かかる姿に(おもむ)かば道行く人も(とが)めんと、御思案ありて父三位の風折(かざおり)烏帽子、御装束、取り出しつつ召し替えて――何と、いろは姫は男姿に身を変えて、たった一人で逢坂までやって来たのだ。この姫君の凜々しさよ。

〽烏帽子狩衣脱ぎ捨てて、大君にいだきつき――狩衣から紅の小袖に早変わりした姫君が蟬丸にすがり付く。土間の女客も拍手喝采だ。

 おりせは溜息をついた。あんな清らかな男と心通わせる仲になりたい。いろは姫に我が身を重ねて、おりせの妄念(もうねん)が走り出す。もう操りには気が入らない。心の内では蟬丸と己が頰を寄せたまま、そこで時が止まってしまった。

 幕が引かれて拍手の嵐だ。おりせの心はすっかり蟬丸の(とりこ)になっていた。芝居小屋を出てからも蟬丸が頭から離れない。雑踏の中で、父が何やら問い掛ける。だがおりせの耳には、まったく入ってこなかった。

「明日の朝。いいか」

「ああ、はい」と、生返事だけを返した。

 その夜は床に就いても蟬丸の姿が(まぶた)の裏から消えなかった。想いを重ねるうちに、心の中の蟬丸がおりせ好みの男に育っていく。

 人形に恋するなんておかしい。いや、人形なればこそ、色事抜きに真心だけを通わせる仲になれるではないか。人形と語り合える己には、それができるのだ。蟬丸の人形が欲しい。己だけの蟬丸を何としても手に入れたい。

 朝早く起き出すと、おりせは鏡の前に座った。髪をふっくらと結い上げて、髪油で形を整える。それから赤紫に白い小花を散らした小袖を着込んだ。父が気に入るように精一杯女らしく装った。

「よしっ」と気合を入れて、階段を下りる。

 仕事場では、父と金吉が向かい合わせに座っていた。手桶と雑巾を手にした清太郎が、おりせの前を横切る。めかし込んだ姉に気付いて目を丸くしたが、すぐに店へと出ていった。台所からは味噌汁の匂いが漂ってくる。母が漬物を刻んでいるようだ。

 金吉が神妙な顔でおりせを見上げる。その視線の先を追うように父が振り向いた。

「おう。女らしいじゃねえか」

 父が上機嫌な笑顔を見せて、ここへ座れと隣を指した。おりせは土間から仕事場に上がり、膝頭を揃えて座ると、父に向かって頭を下げた。あれこれと迷わずに、ここは勢いで言ってしまおう。

「おとっさんに頼みがございます」

「おうおう、言ってみな」

 おりせは一息入れてから切り出した。

「あたしに蟬丸の人形を拵えてちょうだい」

 父の顔から笑みが消える。

「そりゃまた、どういう話だ」

「一晩じっくり考えた。あたしは蟬丸が欲しい」

 父が腕組みをして首を(ひね)る。そこへ台所にいた母が口を挟んだ。

「おまえ様。おりせだって金吉さんの前では答えにくいでしょう。おそらく、おりせは遠回しに匂わせているのです。恋歌を詠む時と同じでございます。これから私は嫁ぎますから、嫁入り道具の一つに蟬丸のような美しい人形が欲しいと。そうでしょう、おりせ」

 母に問われて、おりせははたと気付いた。もしかしたら、今ここで縁談を受け入れるか否かを返答せねばならなかったのか。だがそうだとしても、母の解釈は飛びすぎている。

「いえ、あの、あたしは」と、言い掛けたおりせを遮って、父が声を上げた。

「そういうことか。よし、拵えてやろう。しかし嫁入り道具に男人形だけでは形にならんな。やっぱり内裏雛(だいりびな)に仕立てねばなるめえ」

 父が蟬丸を拵えてくれる。図らずも嬉しい成り行きとはなった。だが、父の思い違いを正さなくていいのか。おりせは当惑したが、蟬丸を諦めるわけにはいかない。

「あたしは蟬丸だけでいいんだけど」

「そりゃだめだ。男雛女雛(おびなめびな)を揃えねえと縁起が悪い。そうだ、金吉。おまえが女雛を作れ。女の人形は俺より筋がいい」

 金吉が身を乗り出す。「蟬丸と合わせるなら、やはり、いろは姫ですかねえ」

「雛人形なら、別に蟬丸にこだわらなくってもいいんじゃねえか」

 おりせは慌てて口を挟む。「いや、蟬丸じゃなきゃ駄目。昨日見た蟬丸が気に入っちゃったんだよ。逢坂の藁屋で琵琶を奏でる姿にして。憂い顔の蟬丸を拵えてちょうだい」

 父があんぐりと口を開けた。「身をやつした姿がいいって言うのか。雛人形ってえのは晴れの装いをさせるもんだぞ」

 父の不平が耳に入らないのか、金吉が手で形を作りながら口を挟んだ。

「蟬丸といろは姫の再会の場なら、姫は狩衣を片肌脱ぎにして、下から紅の小袖が(のぞ)いて見える。そんな姿にしたら見映えしますね」

 おりせの瞼にその情景が(よみがえ)る。あの時は凜々しい姫君に己を重ねて見ていたのだ。

「ああ、それなら、いろは姫の面差しをあたしに似せてちょうだいな」

「おまえは、親の言うことを聞かねえ()ねっ返り娘になりてえのか」

 父が眉をひそめて煙草盆を引き寄せた。気を落ち着けるように一服ふかす。煙の行方を追いながら、思案ありげに「蟬丸か」と呟いた。

「まあ、いいだろう。誂えの人形ってえのは客の好みに合わせて拵えるもんだ。おりせがそうしてくれと言うんなら、そのとおりにしてやろう」

 蟬丸欲しさに気の進まぬ縁談を受け入れてしまった。これで良かったのかと、おりせの喉に悔いがつかえる。

 父が煙管の灰を落とし、吹口にふっと息を吹き入れた。

「金吉。人形の出来を見て、おまえの独り立ちを決める」

「へいっ」と、金吉が真顔で頷く。

「晴れて一人前の人形師になった上で、おりせを貰ってくれ」

 金吉の眼が揺らいだ。物言いたげに唇が半開きになる。だが、父はお構いなしに言葉を続けた。

「気張って作れよ。俺をがっかりさせるな」

「へえ」と、低く答えた金吉が唇を嚙んだ。

「他の仕事もあるから、年の内に仕上げるのは無理だな」と、父が見積もった。

 おりせは皆に気取られないように溜息を漏らした。人形が出来上がるまでに嫁ぐ覚悟を決めねばなるまい。もう逃げ道はなかった。

 二

 晩秋が去り、初冬を迎えた。元号も貞享(じょうきょう)から元禄(げんろく)へと改まった。だからと言って格別に何が変わるということもない。ただ変化の兆しだけは感じていた。

神無月(かんなづき)、風にもみじの散る時はそこはかとなくものぞ悲しき。ああ、あたしの人生も節目だよ。悲しくっても変わらなきゃねえ」

 おりせが愚痴をこぼす相手は、やはり人形のおちよだった。

「もう潮時だよ」

 “何の潮時でしょうか”

「嫁に行く時が来た。でも気が乗らなくってさ」

 “男が苦手だからですか”

 本当に男が苦手なのだろうか。おりせは胸に手を当てて思いの底を探る。人形とは言え、蟬丸だって男だろう。己の中にも男に惚れる女心はあるようだ。

「恋はしてみたいとは思う。でも、その先だよ。夫婦(めおと)になれば、いや夫婦にならなくってもさ、男と深い仲になれば女には苦が待ってる。あたしは子供を生むのが怖い。だから、それに繫がる色事も嫌で(たま)らない」

 “どうして怖がるのですか。赤ちゃんは可愛いらしゅうございまする”

「おっかさんはお産で体を壊したんだよ。それで二十四で死んだ。何となく、あたしも同じ道を辿るように思えて」

 いつの間にか母の死んだ年に近付いている。あと四年、それより先の人生が見えない。

 “おっかさまと同じ生き方をしたくないのですか”

「人形師の女房になるのも悪い道じゃないと思うよ。でも悪い道じゃないからそこを行くっていうのが合点がいかない。上手く言えないけど、他の道もあるような気がする」

 己自身が人形師になりたいという思いは消えてはいない。だが、その道は女と生まれたその時既に閉ざされてしまったのだ。女の身で己を生かすには、嫁ぐよりほかに道はないのだろうか。

「あたしが金さんの嫁になるなんて」と、おりせは文机に突っ伏した。

 父に弟子入りしてきた時、金吉はまだ少年だった。しばらくは仕事場で寝起きしていたが、おりせが年頃になってからは隣町の裏長屋に移ってもらった。だが長屋には寝に帰るだけで、日がな一日仕事場にいる。朝晩の飯だって共に食う。人形屋一家に溶け込んでいて、もはや他人とは思えない。男として見る前に、おりせの中で金吉は兄貴になってしまっていた。それゆえに巷の男ほどの嫌らしさは感じない。

「あたしの相手としては悪くはないのかな」

 今さら頑是(がんぜ)なく拒めやしない。運命(さだめ)に抗うよりも受け入れる方が気が楽だと、おりせの心が傾きかけた。

 “嫌なら嫌と断っておしまいっ”と、苛立(いらだ)つようなおちよの声が頭に響いた。

 おりせは顔を上げて、おちよの瞳をまじまじと見つめた。きつい眼差しだが邪気はない。おちよとは子供時分からの長い付き合いだ。いつだって、おりせの悩みに頷いてくれた。問い返したり、合点したりはするけれど、強く意見されたことは未だかつてない。

「どうしたの。何か気に障ったのかえ」

 “おりせがお嫁に行ってしまったら、寂しゅうございまする”

 そういうわけか――おりせは慰めるように微笑んだ。

「大丈夫だよ。金さんは婿になるんだ。だから、あたしはずっとここにいるよ」

 おりせは人形の頭を一撫でしてから立ち上がった。

 仕事場前の土間に男の背が見えた。でかい男だ。尻端折(しりっぱしょ)りにした着物も藍の股引(ももひき)(ほこり)まみれで、足元には薄汚れた背負い袋と()(がさ)が置いてある。どうやら旅人らしい。仕事場の床に胡座(あぐら)をかいた父が渋面で男を見上げている。何か厄介事を持ち込まれたのだろうか。

 おりせは男の後ろを()り抜けながら、ちらりと顔を見上げた。ほんの一瞬目が合う。

 月代(さかやき)も髭も伸びほうだいで、むさ苦しいばかりだ。気の強そうな太い眉があまりにも男臭い。見開かれた丸い眼がおりせを捉えたまま動かない。顔が時をとめている。まるで人形がしらのようだ。

 知らぬ男だった。だが、奇妙な懐かしさがある。おりせは憶えを辿ったが、思い当たる者はいない。陰りを帯びた眼が、何処となくおちよに似ている。懐かしさは、そのせいだろう。

 会釈を返して目を()らし、おりせは暖簾を潜って店に逃げた。帳場の母に顔を寄せて、「あの人、誰」と囁いた。

 母がちらりと暖簾の向こうに目を向ける。

「弟子入りしたいそうです。昨年まで十軒店(じっけんだな)で修業をしていたとか。その後に京洛の人形を見て回り、たった今、江戸に戻ってきたとおっしゃってましたよ」

「なんで、うちに弟子入りしたいんだろう」

 日本橋大通りに面した十軒店と言えば、将軍様の肝煎りで京の人形師を招いて店を持たせた界隈だ。江戸城下の人形屋の中では一段格が高い。そこを出てまで父に弟子入りしたいとは、如何(いか)なる料簡(りょうけん)だろう。おりせは暖簾の隙間から男の横顔を盗み見た。

「この店の人形が俺には一番しっくりくるんです」と、男が語る。図体(ずうたい)強面(こわもて)に似合わぬかぼそい声だった。

「十軒店で何年修業したんだ」と、父が煙草盆に手を伸ばす。

「六年です。親方と喧嘩して追ん出されました」

 雁首(がんくび)に煙草を詰める父の手がとまった。「そいつは穏やかじゃねえな」

「俺が悪いんです。この一年、方々を彷徨(さまよ)って心を入れ替えてまいりました。麴町(こうじまち)の実家に戻ろうとして、その前に人形町に寄ってみたら、店先の人形と目が合っちまって。親方の人形はやっぱりすげえや。それで、ここでやり直そうって思い付いたもんで」

「思い付きで弟子入りしてえってかっ」

 荒らげた声とともに煙が噴き出る。大男が恐縮して身を縮めた。気まずさが暖簾越しにも伝わってくる。

「あのな」と、存外柔らかい声で父が諭す。「ひとまず家に帰んな。人に頼み事をするんなら、まず湯に入って旅の垢を落としてこい」

「へい。実家は湯屋(ゆや)なんです」

 こんっと、父が雁首を灰吹きに叩き付けた。

「そんなこたあ、どうでもいいんだよ。雇ってくれと言うんなら、身元をきっちり証立(あかしだ)てて、順を踏んで挨拶に来るのが筋ってもんだぞ」

 打たれたように大男の背筋が伸びた。

「親方のおっしゃるとおりだ。湯に浸かってから出直してまいります」

 もっそりと頭を下げてから、男が足元の荷物を手に取った。今日のところは大人しく帰ってくれるらしい。おりせは暖簾の前を飛び退いて、そのまま店先まで走り出た。店の通り土間は狭すぎて、大男とは擦れ違えそうもない。

 男が暖簾を潜って店に出てきた。帳場の母に目礼した顔が沈み切っている。おりせには目もくれず、店に並んだ若衆人形を顧みる。その途端、髭面の口元が緩んで笑みが浮かんだ。まるで人形に焦がれるようだ。

 咄嗟(とっさ)におりせは目を逸らした。人形に恋する気持ちはわかる。だが、あまりにも間抜けな顔で見るに()えない。己も蟬丸に惚れた時はあんな馬鹿面を(さら)していたのか。今さらながらに恥じ入ってしまう。

 男がようやく店から出ていった。やや猫背の後ろ姿が人形町通りの人波に紛れて見えなくなる。戻ってこないのを確かめてから、おりせは店の中に戻った。

 暖簾が(ひるがえ)って、父が顔を出した。

「帰ったか」

「うん」と頷いて、おりせは通りを振り返った。「ちょっと変わった人だったねえ」

 ふんと、父が鼻で笑う。「ああ。腹立たしいけど、何処となく憎めねえ野郎だな」

「湯上がりに、また来るんだろうか」と、おりせは冗談めかして首を傾げる。

「麴町の湯屋から、ここまで来たら湯冷めするぜ。まあ来たところで、金吉と清太郎でもう手は足りているからな。それにしても」と、父の目の先が店の人形に留まった。「俺の人形をすげえと褒めやがった。悪い気はしなかったぜ」

 父の顔が一気に笑み崩れた。悪い気はしないどころか、心底嬉しかったようだ。

 おりせも若衆人形に目をやった。大男の口元に浮かんだ微笑が蘇る。あの男は人形に焦がれるというよりも、父の技に惚れたのか。もしそうなら、確かに憎めない野郎だ。