作家デビュー15年を迎える芦沢央さんの最新短編集『あなたが正しくいられたとき』が5月22日に発売されます。

日常に潜む人間の心の歪みや、「正しさ」が孕む危うさを鋭く描き出した6編を収録。どの物語も、登場人物が信じる「正しさ」が、思わぬ悲劇や皮肉な結末を呼び起こし、人間の心理を深くえぐる筆致に価値観が激しく揺さぶられます。

鮮烈な印象を残すのが、表題作の「あなたが正しくいられたとき」。同窓会で再会した元カノ・黒川の娘が川に落ちるという、衝撃的な場面から物語は始まります。主人公の窪田はとっさに川へ飛び込み、少女を救助します。自らの行動を「正しい」と信じて疑わない窪田ですが、物語が進むにつれて元カノの意外な姿が明らかになり――。「窪田くんは、正しい人だよね」「物語に出てくるヒーローみたい」と黒川に言われる窪田の「正しさ」とは何なのでしょうか。「あなたが正しくいられたとき」より、冒頭を紹介します。


あなたが正しくいられたとき

 黒川(くろかわ)さんって、未亡人なんだって。

 声をひそめて言われた言葉が、すぐには脳内で漢字に変換されなかった。思わず復唱すると、

窪田(くぼた)くん、聞こえるって」

 言い出した本人が慌てるように言って、様子をうかがう視線を黒川の方へ向ける。黒川は背の高いテントの端で娘の口元を拭いているところだった。その手慣れたしぐさに、窪田は目を奪われる。

 黒川が結婚したらしいと聞いたのは四年前。そのとき既に結婚から一年経っていて、もうすぐ子どもも生まれるらしいよと続けられた。へえ、そうなんだ、と平静を装いながら、隠さなければならないほど動揺していることを自覚してさらに動揺した。

『元カノが結婚ってショック?』

 からかう口調に、『元カノって言ったって、高校のときの話だし』と笑い飛ばしてみせると、『まあ、それもそうか』とあっさり納得された。自分の言葉を肯定されただけだというのに、耳の裏が熱くなったのを覚えている。

 ――あの後に生まれた子どもが、もう四歳なのか。

 窪田は、今度は横目で黒川を見た。

 ()()ぐに伸びた背筋と華奢(きゃしゃ)()で肩、細い首は記憶のままなのに、頰のそばかすが化粧で隠されているだけで、まったくの別人を目にしているような落ち着かない気持ちになる。

 黒川がふいにこちらを向いた。目が合うより一瞬早く、窪田は顔を()らしてしまう。テーブルに置かれていた紙皿をつかみ、半分焦げたソーセージにかじりついた。

「焼きそばできたよー」バーベキューコンロの前で幹事の高松(たかまつ)が声を張り上げる。

 窪田が振り向きかけたところで、

「今日の同窓会、あの子は来ないと思った」

 在学中、黒川と同じ図書委員だったはずの野本(のもと)がつぶやくような声音で言った。

「ほんと、よく来られたよね」

 別の女子が相槌(あいづち)を打つ。その響きが揶揄(やゆ)するというよりも案じているようだったからこそ、窪田はこの場を立ち去りたくなった。輪を離れるきっかけを作るためにウーロン茶の入った紙コップを空にしたが、やはり何も言わずに立ち去る気にはなれずに「来たら悪いのかよ」と口にする。

「え?」

「いい歳して陰口とかやめろよ」

 低く言い捨ててプラスチック製の丸テーブルを離れ、そのまま大股でバーベキューコンロに向かった。

「高松さん、焼きそば頂戴(ちょうだい)

 声をかけると、高松は「はいよー」と威勢よく言ってトングで焼きそばを挟み上げ、窪田の紙皿に盛りつける。それから顔を上げ、「あ、窪田じゃん」と今さら気づいたように言った。

「やだ、久しぶりー元気?」

「おかげさまで」

「うわ、全然変わってない!」

 きゃはは、とはしゃぐような笑い声を上げて、窪田の肩をトングを持った手で叩く。

「窪田って大人びてんなーってあの頃思ってたけど、大人になっても大人びてんだね」

「何だよ、それ」

「ほら、それ! その苦笑いめっちゃ懐かしい」

 人さし指で顔をさされ、窪田は半身を引いた。

「高松さんも変わらないね」

「えー変わったでしょーこういうときは綺麗になったとか言うんだよー」

 高松は口を(とが)らせたかと思うと、すぐに「なんてね」と歯を見せて笑い、ほとんど()を置かずに「そういや話変わるけど窪田って今彼女とかいるの?」と続ける。

「……また随分話が変わったな」

「ね、どうなの。まだ結婚はしてないよね?」

 高松は()きながら窪田の左手へ視線を流した。窪田は何となく紙皿を持ち替えて「してないけど」と答える。

 高松は「お」と身を乗り出した。

「じゃあ、黒川さんとかどう?」

「は?」

 訊き返す自分の声が思いのほか大きく響いたことに気づいて、テントの方を見る。ちょうど黒川がテントから出てくるところでぎくりとしたが、黒川はこちらを向くことなくテントの内側を振り向いて両膝をついた。娘の前に小さなサンダルを並べると、すかさず娘が「じぶんでできる!」とサンダルを引ったくって()き始める。だが、近くにいた女子が「何歳?」と尋ねた途端にパッと黒川の脚に隠れるようにつかまった。

「四歳なの」

 代わりに答えたのは黒川だった。その声は記憶の中にあったものよりも少しだけ低い。

「かわいいねえ、お母さんによく似てる」

「そうかな」

 黒川はどこか困ったように答えて、娘に腕を引かれるままテントを離れた。

「ほら、窪田も行ってきなよ」

 高松が意味ありげな笑みを浮かべて腕をつかんでくる。

「やめろよ」

 窪田は顔をしかめて高松の手を軽く払った。

「なんでよー、つき合ってたんでしょ?」

「いや、昔の話だし」

 口ごもるような形になってしまい、窪田は「あっちにも迷感だろ」と語調を強める。高松は首を(かし)げた。

「あれ、知らない? 旦那さん亡くなったって」

「……そういう問題じゃないよ」

「でも、黒川さんは窪田のこと意識してるみたいだけど?」

 え、と声がわずかに上ずる。慌てて「まさか」と意識的に苦笑してみせた。

「そんなわけないだろ。卒業以来会ってないんだし」

「今回、同窓会の案内を出したら訊かれたんだよね。窪田くんって今、消防士なんだよね、窪田くんは来るのって」

 とん、と小さく心臓が()ねる。

「ね? 意識してなきゃそんなこと訊かないでしょ?」

 高松は目を弓のように細めた。

「いいじゃん、元サヤに戻っちゃえば」

「やめろって」

「あ、子持ちはイヤ?」

「そういうんじゃないけど……」

「なら、とにかく話しかけてきなよ。せっかくの同窓会なんだから」

 高松に背中を押されて、窪田はよろめくようにして河原の上を数歩進む。

 今の話が聞こえていたんじゃないかと黒川を見たが、黒川はこちらに背を向けたままだった。娘と並んでしゃがみ込み、石を指さして何かを話している。

 何となく辺りを見渡すと、ちょうど食べるのが一段落ついてきた頃なのか、三台のバーベキューコンロとテントの周りには、ポツポツと人が出てきていた。自撮りをしているグループ、缶ビールを片手に立ち話をしている人の輪、浅瀬ではしゃぐ子どもたち。泳いだらさぞ気持ちいいだろうと思うような陽気だが、少し離れると急に深くなるためか本格的に入っている人はいない。それでも、高校生の頃だったら誰かがふざけて岩場から飛び込んでいただろうなと思うと、自分たちはもう二十六歳なのだという事実が浮かび上がってくる気がした。

 黒川が足元から石を一つ拾い上げ、娘に見せる。娘は「わあ、きれい!」と歓声を上げて地面に飛びついた。そのまましばらく()いつくばっていたが、思ったような石が見つからなかったのか、「ママばっかりずるい!」と頰を膨らませて地団駄(じだんだ)を踏み始める。

「ユキ、これあげるよ」

「いらない!」

「もっとあっちの方を探してみる?」

「ママなんかきらい!」

 頭から湯気が出そうな勢いで腹を立てている様子に、窪田は口元を緩めた。見た目は黒川のミニチュア版のようにそっくりだが、中身は黒川と違ってかなり気が強く、感情表現が豊かなタイプらしい。

 ユキ、と表情に乏しい顔で娘を追いかける黒川の姿は、高校時代の黒川を連想させた。

 そうだ、あの頃もよく黒川はあんな顔をしていた。誰かに感情を悟らせまいとしているような無表情。班決めで余ってしまったとき、修学旅行での自由時間、聞こえよがしに悪口を言われていたとき――黒川とつき合うことになったきっかけも、黒川への悪口を窪田が(とが)めたことだった。

 そのとき悪口を言っていた女子が誰だったかは忘れてしまったが、『そういうのやめろよ』と口を挟むと『何あんた、ウザいんだけど』と顔をしかめられ、何を言われようと自分に非がないと確信できている限りは意外と平気なものなんだなと考えたことは記憶にある。

 窪田が平然としているのが気に食わなかったのか、その女子は鼻を鳴らし、

『黒川さんって男に()びるのだけは上手(うま)いよね』

 と再び黒川に矛先を向けた。黒川は、能面のような無表情でうつむいていて、窪田は『俺が嫌だと思っただけだよ』と言い返した。

『じゃあ、あんたが黒川さんに媚びてるんだ』

 やだー、と他の女子がその女子の肩をつついて笑う。ここで違うと言えば自分も悪口に加担することになると思い、『そうだよ』と答えると、誰かが『うわ、告白じゃん』と言って教室中がどっと沸いた。

 窪田はため息をつきたくなるのを(こら)えた。本当のところ、黒川のことを異性として意識したことは一度もなかった。何でこんな流れになるんだ、とうんざりしながら、こうなった以上はそういうことにしておくべきなんだろうな、と冷静に考えていた。

 黙っているうちに(はや)し立てられ、二人で話してきなよと揃って教室を追い出された。そのまま教室の前で話す気にはなれずに自然と階段の踊り場まで移動し、足を止めたところで『変なことになっちゃってごめん』と声をかけると、黒川は、ううん、と小さく首を振った。

『窪田くんが私を助けるために言ってくれたのはわかってるから』

 私こそ変なことに巻き込んじゃってごめんね、と淡々としたトーンで続けられて拍子抜けした瞬間、

『窪田くんは、正しい人だよね』

 黒川は手に持っていた文庫本を見下ろして言った。

『物語に出てくるヒーローみたい』

 ヒーロー、という言葉に、身体の内側がくすぐったくなる。

『ありがとう』

 そう答えると、黒川が(はじ)かれたように顔を上げた。一瞬、驚いたような表情を浮かべると、再び顔を伏せ、ふ、と頰をほころばせる。

 その初めて見る黒川の柔らかな表情に、心拍数が上がり始めた。何だこれ、と自分でも驚いて胸を押さえる。

 黒川が『そろそろ教室に』と先に歩き始めた。

『ああ』と答えて続いた途端(とたん)、黒川の華奢な肩が目に飛び込んできて、何だこれ、ともう一度思ったときにはもう先ほどまでの気持ちには戻れなくなっていた。

「ユキ」

 黒川が、岩場の先端でいじけるようにしゃがみ込んでいる娘に声をかけた。娘は動かず、サンダルのマジックテープを()がしたりつけたりしている。

 ――話しかけるなら、今なんじゃないか。

 窪田は一歩足を踏み出した。別に特別な話なんかしなくてもいい。普通の元クラスメイトとして近況を尋ねるだけ。

 足元で砂利(じゃり)が鳴り、ふと、黒川がこちらを振り返る。窪田はまたしても反射的に顔を(そむ)けそうになったものの、寸前で堪えた。たった今気づいたふりをして片手を挙げかけたところで、爆発するような泣き声が後方で上がる。

 ハッとして声の方を見ると、誰かの子どもが転んだらしく、顔を真っ赤にして泣いている。泣きながら膝を押さえている姿に、頭は打っていないようだと安堵(あんど)した瞬間、耳が砂利の鳴る小さな音を拾った。

 何気なく顔を前に戻した窪田の目に、黒川が娘の方へ手を伸ばしている姿が映る。

 え、と思ったときには、娘の身体は宙に浮いていた。

 娘の腕が岩場の向こう側の空気を()き、弾けるような水音が上がる。

「ユキ!」

 黒川の悲鳴が一拍遅れて耳に届いた。その悲壮な響きに、一瞬、たった今自分が目にした光景が何だったのかわからなくなる。

 それでも身体は勝手に動き、気づけば岩場の先端まで駆け寄って下を(のぞ)き込んでいた。水面までは一・五メートルほど。「ユキ!」黒川がもう一度叫ぶのと同時に、小さな頭が水面を割って現れ、またすぐに沈む。

「ユキ!」

「子どもが落ちたぞ!」

 黒川の声と、背後からの誰かの声が重なって聞こえた。

「助けて窪田くん!」

 名前を呼ばれ終わるよりも早く、窪田はテントへと走る。クーラーボックスを引ったくって逆さにし、蓋を閉めながらサンダルとTシャツを脱ぎ捨てた。

「ユキ!」

「黒川はここにいろ!」

 岩場から身を乗り出した黒川の肩をつかんで引き戻す。ユキの位置を確認し、その一メートル横にクーラーボックスを投げて自分も飛び込む。

 冷たい水が一気に全身を包み、目を開けると青緑色の視界の中に白い腕が見えた。一回水面に顔を出し、息を吸い込んでからもう一度潜る。水中で四肢(しし)を動かしている背後から抱きかかえるようにして水面に出た途端、ユキが激しく()き込み始めた。窪田は「もう大丈夫だよ」と声をかけながらクーラーボックスを視認して片手だけで水を搔く。

 幸いユキはパニックになることもなく、浮いたクーラーボックスにしがみついてくれた。

「そうそう、落ち着いていてえらい。これにつかまっていれば怖くないからね」

 窪田は意識的にゆったりした口調で語りかけ、黒川にも「今から上がる」と声を張り上げる。すると黒川は岩場からすばやく姿を消した。窪田が顔を前に戻し、とりあえず安全なところへ、と水の流れを見極めていると、

「窪田くん!」

 黒川の声と共にロープが落ちてくる。窪田は反射的にその先をつかんだ。

「ロープの先をどこかに固定できるか」

「もう固定してある!」

 黒川が叫ぶような声音で答え、「ユキ!」と身を乗り出す。

「ママ!」

 ユキも黒川の方へ腕を伸ばしかけた拍子にクーラーボックスからずり落ちかけ、窪田はユキを抱え直して「ちゃんとつかまっててね」と声をかけた。

「今からママのところに戻るからね。ユキちゃんは、とにかくこのクーラーボックスにつかまっていること。できる?」

「うん」

 ユキがうなずくのを待ってから、ロープの端をクーラーボックスの取っ手に結びつける。さて、どうすれば最も早く安全に助けられるか。窪田は改めて辺りを見渡した。平らな場所であればロープを引き寄せてもらうのが一番だが、黒川の娘を抱えて岩場を登るとなるとかえって危険だ。向こう岸は浅瀬になっているが、そこに行くまでに流れに身を取られないとも限らない。

「おい、俺もそっち行くか?」

 黒川の隣から、窪田と同じ水泳部だった但馬(たじま)が顔を出した。窪田は「但馬はそこにいてくれ」と返す。いくら元水泳部とはいえ、着衣のまま、しかも水の流れがある川においては溺れる可能性がないわけではない。目の前で溺れている人がいればとにかく早く助けたいと思うものだが、衝動的に救助に向かってはならないのだ。もしここで要救助者が二人に増えたら、救助のハードルが跳ね上がってしまう。

 窪田は十メートルほど下流に子どもを抱えてでも登れそうな岩があるのを見つけた。

「あそこまで流れていきたいんだけど、もう少しロープを延ばせるか」

 顎だけで下流を示すと、但馬は首をねじって窪田の視線の先を確かめ、「了解」と言って立ち上がる。しばらくして「但馬くん!」という黒川の声が聞こえてきた。

「但馬くん一人で持ったら流れに引っ張られてしまうかもしれない。杭のところからヒューマンチェーンを作って長さを稼ぐから、最後の人がロープを持つようにして……」

「ヒューマンチェーン?」

「前後交互に並んで互いに手首を握り合うの。そうすれば簡単には手が離れない」

 黒川は早口に言った。そのまま声を張り上げて他の面々にもヒューマンチェーンのやり方を説明していく。

 これが本当にあの黒川か、と思うほど、強く、大きな声だった。窪田はユキの額に張りついた前髪を剝がしてやりながら、違和感を覚える。

 ――黒川はなぜ、ヒューマンチェーンのことを知っているのだろう。

 そう思った瞬間、否応なしに一つの疑問が頭をもたげる。

 黒川はなぜ、落ちた娘を前にして自分で助けに行こうとせずに人に助けを求めたのか。

 救助の方法としては、それで正しい。けれど窪田は、これまで何度も、子どもを助けようと咄嗟(とっさ)に動いてしまう親の姿を目にしてきた。

 無論、黒川を止めたのは自分だ。だが、黒川は自分が制する前から、飛び込む姿勢にはなっていなかった。身を乗り出してはいたものの、両膝をついたままだった――

「ママ」

 腕の中から聞こえた涙交じりの声に、ハッと我に返った。今はそんなことを考えている場合ではない。

「大丈夫、もうすぐママのところに戻れるからね」

 窪田はユキに語りかけ、岩の方へと移動していく。岩まで流れ着き、まずはユキを岩の上に乗せると、腹と腕に力を込めて自身の身体を引き上げた。濡れたハーフパンツが脚にまとわりついて重い。それでも何とか水から出きってしまえば、あとは慎重に登っていくだけだった。ユキをしっかりと抱え直し、一歩一歩踏みしめるように足を進める。

 地面まで辿り着いたときには、知らず息が漏れた。

「ユキ!」

 黒川が涙で濡れた顔をくしゃくしゃにしながら娘を抱きしめる。ユキもまた、大声で泣きながら母親にしがみついた。

 その光景に、集まってきていた元同級生たちが一斉に歓声を上げる。おまえマジすげえよ、やっぱり現役の消防士さんは違うよね、やばいめっちゃかっこよかったんだけど、窪田ヒーローじゃん――口々に上がる言葉の中に、ヒーローという響きを聞き取った瞬間、腹の底で何かが(うごめ)くのを感じた。脳裏に、先ほど目にした黒川の姿が(よみがえ)る。

 娘の背中に手を伸ばした黒川の姿。

 あれは、バランスを崩して落ちかけた娘を引き寄せようとしたのだと思おうとする。けれど、そのそばから、そうではないと頭のどこかでわかってしまってもいる。

 あのとき、ユキはまだバランスを崩してはいなかった。ユキが川に落ちたのは――黒川が背中を押したから。

 そんなわけがない。黒川がそんなことをするはずがない。そう思うのに、あの姿が頭から離れない。

 黒川は、娘を突き落とそうとしたのではないか。

 だからこそ、助けてと口にしながらも、自分では助けに行こうとしなかったのではないか。

 ぎこちなく首を動かして黒川を向くと、黒川は、娘から離れないまま窪田を見上げる。

「窪田くん、本当にありがとう」

 いや、と答える声がかすれた。黒川の顔を直視することができない。直視してしまったら、何で、という言葉が喉から出てしまいそうな気がした。

 何で突き落としたりしたんだ。何で自分で助けようとしなかったんだ。なのに何で、そんなに無事を喜んでいるんだ。

 黒川が何を考えているのか、まったくわからなかった。ただ、ここでそんな疑問を口にしてはならないことだけはわかる。もしそんなことを言えば――殺人未遂だと告発するも同然だ。

 殺人未遂。

 自分が思い浮かべた言葉に、自分で愕然(がくぜん)とした。

 そう、あれは、一歩間違えれば娘が死んでいた行為だった。たまたま川に充分な深さがあって頭を打つようなことがなく、たまたま水の流れが緩やかな場所で、たまたま救助に慣れた自分がいて、たまたま長いロープがあったから大事に至らなかっただけで、そのどれか一つでも違っていれば取り返しがつかない事態になっていたかもしれない。

「ごめんなさい、同窓会を台無しにしちゃって」

 黒川が青ざめた顔で身を縮めた。

「何言ってんの、そんなのどうでもいいって」

 高松が黒川の肩を叩く。無事で本当によかったよ、と言われて、黒川はうつむくように頭を下げた。

「あの、窪田くん、車に夫の服があるから、よかったら……」

 と控えめな口調で切り出す。

「いや」

 大丈夫だよこのくらい、と続けそうになった言葉を窪田は吞み込んだ。本当に、このまま帰してしまっていいんだろうか。せめて、話を聞いた方がいいんじゃないか。

「……それじゃあ、お言葉に甘えて」

 窪田が言うと、黒川は頰を(かす)かに(やわ)らげ、高松に「念のためにこの子を病院に連れていきたいから、今日はここで失礼させてもらうね」と告げた。高松が「それがいいよ」と小刻みにうなずくのに会釈(えしゃく)で返し、地面に転がっていたリュックを背負い直して娘の手を取る。

 窪田はあえて高松の方は見ずに、黒川の後へ続いた。