ミステリー、イヤミス、ホラーと、ジャンルをまたいで読者を驚かせ続けてきた作家・矢樹純さん。7月24日、初の警察小説『刑事総務課は眠らない』を刊行します。不眠症の女性上司と、1日1時間未満しか眠れないショートスリーパーの男性部下という異色のバディが事件の真相を追うこの作品。同作より、第1話「自動装置は止まらない」の冒頭を特別にご紹介します!


自動装置は止まらない

 カモメが鳴き交う声を聞いた気がして、月代(つきしろ)杏果(きょうか)はマウスを操作する手を止めた。窓の外に目をやると、夕日を映す穏やかな海面を、水上バスが白い尾を引いてゆっくりと進んでいる。赤く染まった羊雲の下、大さん橋の向こうに、あたかも宝石箱のように窓の灯りをきらめかせた大型客船の姿が見えた。その左手には歴史を感じさせる赤レンガ倉庫が立ち並び、避雷針を備えた堅牢な瓦屋根が、(だいだい)色を帯びた夕暮れの空に美しいシルエットを描いている。

 海岸通り沿いに位置する二十階建ての庁舎に配属されて、三年あまりが経つ。これまで、こんなふうにゆったりと横浜港の風景を見下ろしたことは、ほとんどなかった。思い出せるのは、出動要請のない当直の夜更けに眺めたみなとみらいの夜景。それと早朝に被疑者宅を訪問するまでの待機中、緊張に包まれて見上げた朝焼けくらいだろうか。

 視線をモニターに戻し、びっしりと細かい文字で埋め尽くされた文書ファイルを(にら)む。途端に目の奥が痛み始めた。眉間を()みながら、上から順番に、項目の抜けがないことを確認していく。

 杏果が現在の部署に着任してから、一週間が過ぎた。このところ肩こりと眼精疲労が(ひど)く、視力が急激に落ちた気がする。画面を下段までスクロールさせたところで瞳の乾きに耐えかね、目薬をさした。目元を押さえたティッシュを丸めつつ首を回すと、鈍い痛みとともに、めきめきと嫌な音がした。

 三十三歳と三十七歳は女の厄年(やくどし)で、特に三十三歳は大厄なのだと何かで読んだ。「三十三は《散々》に通じるから」という駄洒落のような由来に迷信としか捉えていなかったが、確かに杏果にとって昨年は、大厄と呼ぶにふさわしい一年だった。

 意欲と責任感をもって奉職してきた神奈川県警刑事部捜査第一課を離れ、九月の人事異動で現在の刑事総務課犯罪統計係へ異動することになった。そのきっかけも、昨年発生したある重大事件にあった。

 いずれは捜査一課に所属し、刑事として凶悪犯罪に立ち向かいたい。

 確固たる目標を掲げて、杏果は地元神奈川の大学の法学部に進み、警察官を志した。交番勤務時代から、実績を上げるため自転車の盗難や酔っ払いによる器物損壊といった小さな事件においても粘り強く捜査し、被疑者を検挙した。逮捕術や柔道の稽古に打ち込み、休日を返上して法令を勉強し、専門の研修も受けた。おかげで同世代の仲間内では少々浮いた存在となり、恋人を作る余裕もない毎日だったが、後悔はなかった。

 ひたむきな努力が実って川崎西署の刑事課に異動した二年後、ストーカー(がら)みの殺人未遂事件で、杏果は被疑者のものと思われるSNSの投稿から潜伏先を特定した。鋭い着眼がスピード逮捕に繫がったと評価され、三十歳で本部捜査第一課への配属が決まった。

 念願を(かな)え、着実に刑事として経験を積み、事件解決に力を注いできたが、その道は自らが招いた失態のために絶たれてしまった。さらに異動したばかりの今の部署でも、後厄の(さわ)りではと思いたくなるような災難に見舞われている。

 刑事総務課の一角にパーテーションで仕切られた離れ小島のようなデスクで、自身の境遇について思いを巡らせていると、意識が散漫になっていく。深い穴へと落ち込むような体感に、びくりと肩を震わせた。慌ててミントタブレットを口の中へ放り込み、紙コップの冷めたコーヒーを飲み干す。

 しょぼつく目をこすりつつ、新たな文書ファイルを開き事件番号をつぶやきながら捜査資料と照合する。罪種と発生日時、場所が一致していることを確かめ、被疑者と被害者の年齢、性別など、内容に誤りがないかチェックしていく。

 杏果が主任として着任した犯罪統計係は、県内で発生した刑事事件を統計資料にまとめて分析し、警察庁に報告することを業務としている。特定の時期や地域における犯罪傾向を把握することで、あらかじめパトロール強化などの対策を講じ、さらには市民への情報提供によって防犯意識を高めることもできる。こうした犯罪の地域プロファイリングは近年ますます重要視されている捜査支援業務であり、拝命したからには精一杯取り組むつもりだった。

 しかし働き始めてすぐに、当初の意気込みは消え去った。今はできる限り早く再び辞令を受け取り、ここから抜け出したい思いでいっぱいだった。

 その理由は、犯罪統計係に在籍する、もう一人の係員の存在にあった。

 杏果たちが扱う統計資料には殺人、強盗、傷害や窃盗といった刑法犯だけでなく、入管法や軽犯罪法、大麻取締法や迷惑防止条例など、特別法犯も含まれている。神奈川県警規模の検挙数になると、一日に数百件ものデータを処理しなければならない。その作業量に対し警察事務職員の補佐もなく、主任と係員の二名のみという人員配置は、通常であればあり得ない状況だった。

 腕時計の時刻を確認し、咳払いをする。

根津(ねづ)君、そろそろ切り上げて帰らない?」

 できるだけさりげない調子で、隣のデスクの根津梗士郎(きょうしろう)巡査に呼びかける。しかしタッチパッドに置かれた太い指が動きを止めることはなかった。

「いえ、自分はまだ大丈夫です」

 杏果のただ一人の部下である根津梗士郎は、こちらに視線を寄越すことなく無愛想に答えた。眉ひとつ動かさずパソコンに向かう横顔を睨む。

 身長一八〇センチを超えるがっしりした体格は、スーツ姿で座っている分には、そこまでの威圧感はない。だが毛量の多い頭髪を無造作に後ろに流した髪型と、まっすぐな太い眉にどっしりとした鼻、引き結ばれた唇は、あたかも野武士のような雰囲気を(ただよ)わせていた。一重まぶたの黒目がちな瞳は表情に乏しく、ただ静かにモニターの白い光を映している。

 根津が犯罪統計係に着任したのは五年前のことで、当時は事務職員を含め六人体制だったという。元は警備部機動隊の所属だったが、任務中の事故で受傷し、健康上の理由から内勤となったのだと一週間前の顔合わせで聞かされた。確かに彼の風貌はパソコンに向かう事務作業より、盾と警棒を手にしている方が似合っているように思えた。

「月代主任こそ、居眠りしそうなほどお疲れなら、退庁した方がいいですよ。ぼんやり外を眺めたり目薬をさしたりと、集中力も落ちているようですし」

 顔をモニターに向けたまま、根津が淡々と忠告してくる。先ほどからの様子を見られていたのかと、(ほお)が熱くなった。

「私が疲れたから言ってるんじゃなくて、根津君の体調を心配してるの。大体あなた、当直明けでしょう。こんな時間まで働いてちゃ駄目だよ」

 部下とはいえ一歳しか違わない根津に気づかわれ、むきになって注意する。この日、根津は当直勤務後に居残って仕事をしており、現時点で三十四時間連続勤務となっていた。警察官は緊急対応の必要性もあり、長時間勤務が常態化しているのが実情だが、さすがにこんな働き方を上司として見過ごすわけにはいかない。付け加えれば、すでに昨日までのデータは昼過ぎの時点で送信済みで、根津が超過勤務をしなければならない理由は一つもなかった。

 刑事総務課への異動が決まる以前から、犯罪統計係に少々問題のある係員がいるという噂は聞いていた。その話を教えてくれた捜査一課の先輩によれば、彼はある特殊な性質から、部署の内外でしょっちゅうトラブルを起こしているらしい。それに辟易(へきえき)した同僚および事務職員が次々と異動願いを出したために、ついに係員が当人のみとなったのだという。

 ただなぜか、彼が具体的に何をしたのかについては箝口令(かんこうれい)が敷かれているとのことで、詳細は教えてもらえなかった。そんな中、根津のフォローをしてきた前主任がストレスから体調を崩して休職し、杏果が後任を務めることになったのだ。

 辞令が出た際、(くだん)の先輩からは「月代なら案外あいつと上手くいくかもな」と意味深なことを言われた。どういう意味かと首を(かし)げたが、着任初日、顔合わせ後に刑事総務課長の酒巻(さかまき)から初めて根津が抱える《問題》について説明を受けて、言葉の意味が分かった。

 それは、到底信じることができない話だった。

「ずっと眠らないで働ける人間なんて、いるはずないじゃない」

 一週間前、酒巻課長に向かって口にしたのと同じ言葉を、無感情にこちらを見返す当の根津にぶつける。

「いくら大丈夫だと言われても、そんな働き方はさせられない。帰って寝なさい」

「そうおっしゃられても、自分は眠れないんです。帰っても休めないなら、仕事をしていた方が良くないですか」

 平然と言い返す根津に、「いいわけないでしょう」と、つい大きな声が出た。

 酒巻によれば、根津は八年前の災害派遣の任務中に落石に巻き込まれ、頭部に深刻な損傷を負ったのだという。

「高次脳機能障害と呼ぶらしいんだけど、後遺症が残っちゃってね。一日一時間未満の睡眠しかとれないそうなんだ」

 五十代半ばの酒巻は、人の良さそうな下がり眉を(くも)らせ、重度の睡眠障害を抱えた部下の扱いについて、配慮すべきことを補足した。

「眠れないだけで、他に健康上の問題はないから、本人は通常の業務をさせてほしいと希望している。実際、隊長が症状に気づいて異動を勧めるまでの三年間は、一機で普通に勤務していたからね。多少働きすぎなところは上司の立場からすると心配かもしれないけど、その点は鹿内(しかない)刑事部長が許可を出しているから。あまり口出しせず、何かあればフォローしてあげてよ」

 柔らかな口調に、それとなく有無を言わせぬ圧が交じる。なぜそこに刑事部のトップである刑事部長が絡んでくるのかと不可解さを覚えつつも、一応は納得してみせた。そして「案外あいつと上手くいくかも」との先輩の言葉とともに、自身を根津と組ませた采配に、皮肉な意図が含まれていることを感じ取った。

 杏果が捜査一課を去ることになったのは、職務中に眠り込み、強盗事件に関与した疑いのある行動確認の対象者を取り逃したからだ。

 失態の誘因となったのが、昨年発生した重大事件の捜査をきっかけに患った不眠症だった。

「月代さんならきっと根津君に寄り添って、上司として支えてあげられると思うんだ」

 酒巻は励ますように言って鷹揚(おうよう)な笑みを浮かべた。糸のような細い目からは、本心は読み取れなかった。

 短い睡眠時間にもかかわらず日中の活動に影響が出ない――いわゆるショートスリーパーと呼ばれる体質の人々は、一定数存在する。睡眠障害については杏果自身も当事者としてあれこれ調べたため、高次脳機能障害の症状に不眠が含まれることも知っていた。だが一日一時間未満しか眠らずに長期間その生活を継続するなど、できるはずがない。

 強制的にラットを断眠状態にする実験では、開始して間もなく体重減少とともに体温や免疫力の低下が見られ、二週間から四週間のうちにすべての個体が死亡したという。人体実験については倫理的な観点から実施されておらず、一九六四年にアメリカの高校生が十一日間の断眠に成功した記録が残っているのみだが、最新の研究でも不眠はホルモン分泌や自律神経機能の乱れ、前頭葉へのダメージによる記憶力の減退など、肉体と精神に様々な影響を及ぼすとされている。

 だからこそ杏果は、根津に無茶な勤務実態を改めさせようと忠告してきた。

「そんな働き方を続けてたら、絶対に体を壊すよ。寝不足だと集中力も落ちるし、精神状態も悪くなるんだから。また一昨日みたいなことになったらどうするの」

 あくまで帰ろうとしない根津に、二日前に彼が起こしたトラブルのことを持ち出した。この件で杏果は着任早々、他部署に平謝りする羽目になったのだ。

「その節は、申しわけありませんでした。でも決して寝不足で苛々(いらいら)していたとか、向こうを困らせようとしたのではないんです」

 決まり悪そうに目を伏せながらも、根津は弁解した。

「だったらどうして、帰宅した署員に夜中に電話をかけてまで、事実確認する必要があったの」

 犯罪統計係はデータをまとめて分析し、報告するのが仕事だ。一日のノルマはあるものの、緊急性の高い作業ではない。しかし根津は一昨日の深夜二時に、捜査資料の被害者の服装の記載が曖昧(あいまい)だというだけで四階の生活安全部に乗り込んでいき、当直の課員に担当者と話をさせるよう要求したのだ。翌朝その事実を知らされ謝罪に出向いた杏果は、少年育成課の課長から強く𠮟責された。

「聞いたら友達同士の喧嘩みたいなもので、被害届も出されなかった、単なる非行事実だっていうじゃない。そんな案件で、しかも被害者の制服が長袖か半袖かなんて、どうでもいいでしょう」

 八月に受理した該当の事件の被害者と加害者はそれぞれ別の高校に通う女子生徒で、小学校時代の同級生とのことだった。夜の十一時に市内のマンションのエントランスで激しく言い争っていたのを、住人が見かねて通報したのだという。ちょうど付近をパトロール中だった所轄の署員が現着したところ、興奮状態となった加害生徒が被害生徒を殴打し怪我をさせたため、署に連行せざるを得なくなった。

 その後、連絡を受けて()けつけた保護者同士が話し合い、被害生徒側が事件化を望まなかったため、補導の事実のみを記録したとのことだった。寝ていたところを叩き起こされた所轄の女性巡査長は、「服装がそんなに重要だったでしょうか」と不機嫌そうに応対したという。

 一昨日の一件を経て、根津の問題は眠らずに働き続けることよりもむしろ、こういった周囲との軋轢(あつれき)の方にあるのだと杏果は(さと)った。今回被害に()った少年育成課の課員がこぼしていたが、根津は時折そうして捜査資料に瑕疵(かし)を見つけては深夜であっても――あるいはどんなに相手方の部署が立て込んでいる状況でも意に介さず詰問(きつもん)してくるのだという。

「急ぎではないと頭で分かってはいるんです。でもその時は、どうしても気になって、早くその項目を正しく埋めなくてはいけないという考えにとらわれてしまうんです」

 自分でもよく分からないのだと、困り顔で押し黙る。それが本当だとすると、不眠症だけでなくなんらかの強迫症もあるのではないかと、ますます杏果は根津の健康状態が心配になった。

「大丈夫だと思ってても、本当は疲れてるんだよ。私も同じ年代だから分かる。だんだんそうやって無理が利かなくなっていくの。だから今日はもう帰ろう。眠れなくても、体だけでも休めた方がいいって」

 今が攻め時だとばかりにまくし立てると、根津は納得いかなそうにしつつも、「では今日のところは帰らせていただきます」と、やっと作業を終了させた。

 渋々デスクを片づけ始めた根津を、あとのことは私がやるからと廊下に追い出す。遠ざかる足音を聞きながら、ようやく肩の荷が下りた思いで給茶機で注いだほうじ茶をすすった。

 着任してから一週間、根津は仮眠室で短時間休んだり、シャワーを浴びたりはするものの、ほとんど寮に帰ることなく課室にこもっていた。杏果がついこの間まで在籍していた捜査一課であれば、重大事件が発生した際、多くの捜査員が本部に寝泊まりして過ごすこともあった。だが刑事総務課でそんな働き方をする課員は一人もいない。この時間に残っているのは杏果を含めて数名だけで、課長の酒巻もとっくに退庁済みである。

 ついに帰ってくれたと胸を()で下ろしつつ、自身のパソコンを終了させる。トートバッグを手に課を出ようとドアに近づいた時、廊下をこちらへ向かってくる足音が聞こえた。まさか根津が戻ってきたのかと戦慄(せんりつ)する。

 だが、そうではなかった。ノックのあと「失礼します」と顔を出したのは、昨日杏果が部下の不手際を詫びた少年育成課の若い男性課員だった。

「月代主任――根津さんから問い合わせがあった件で、新たに分かったことがありまして」

 まだ在職三年目の彼は神妙な面持ちで、「所轄の担当から連絡があったので、主任にも報告しておいた方が良いかと思ったんです」と小声で告げた。あまり聞かれたくない話のようだ。パーテーションの内側に招き入れ、先をうながす。

「根津さん、制服が長袖か半袖かを気にしておられましたよね。所轄に問い合わせて長袖のカーディガンを羽織っていたと分かったのですが、事件の起きた八月の夜の気温からすると、被害者の女子生徒が長袖を着ていたのが不自然だと根津さんがおっしゃって……その理由を、なぜか被害生徒でなく加害生徒に尋ねるように頼まれていたんです」

 担当者を深夜に叩き起こしただけでなく、そんな迷惑な頼み事までしていたのかと青くなった。重ねて謝罪しようとする杏果に、彼は周囲に目をやると、いっそう声をひそめて続けた。

「それで担当した女性署員が加害生徒に事情を聞いたところ、実は現場のマンションで二か月前に、ある男性歌手が飛び降り自殺していたことが分かったんです。被害生徒はこの歌手の大ファンだったそうで、加害生徒は被害生徒が後追い自殺を図ろうとした(・・・・・・・・・・・・)のを止めに入ってトラブルになった。長袖を着ていたのは、リストカットの跡を隠すためだったようです」

 被害生徒が通う高校は私立の名門校で、学校側に事実が伝わることを恐れ、示し合わせて口をつぐんだとのことだった。