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『いとま申して』解説

『いとま申して』解説

文:川本 三郎 (評論家)

『いとま申して』 (北村薫 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #ノンフィクション

 大正七年に、鈴木三重吉によって児童雑誌『赤い鳥』が創刊されたことが大きい。児童文学が新しいジャンルとして活発になった。『童話』もその新しい波のなかで創刊された。

 面白い挿話がある。『童話』は若い読者の投稿を大事にした。大正十五年二月号に神戸の少年のこんな投稿が載った。前号の感想が書かれている。

「まあ! 素的ですね、川上四郎先生の絵ハガキ幾度見なほしても好きです」「(略)童話の正月号は素的でした。では、サヨナラ」。

 文体から分かるようにのちに映画評論家として活躍する淀川長治(「父」と同じ明治四十二年生まれ)。北村薫さんは神田の古書店で『童話』の復刻版を手に入れ、この淀川少年の投稿を見つけたという。うれしく驚いたことだろう。淀川長治のあの語り口は、テレビに出演するようになってからのものと思っていたが、すでに少年時代からそうだったとは。

 さらに『童話』の投稿者には当時、下関に住んでいた金子みすゞもいたというから驚く。「父」より六歳年上になる。無論、没後、これほど世に知られるとは本人もまったく予想していなかっただろう。「父」と淀川長治と金子みすゞが児童文学によって結ばれている。まだ軍国主義色が濃くなっていない大正デモクラシーの時代ならではの良き関係と言えよう。

 ある時、『童話』が児童劇を公募した。「父」は思い切ってこれに応じ「道化役者と虫歯」という戯曲を書き、編集部に送る。はたしてどう評価されるか。なんとこれがみごとに入選し、活字になる。文学少年の喜びはいかばかりだったか。「この手で書いた文章が活字になり、挿絵を付けられて、今、目の前にある。夢見ていたことが、現実になった」。そう書く北村薫さんは、「父」の喜びと興奮を共有している。

 この時、「父」の作品を評価した選者が北村寿夫だったというのも文学史の面白さ。戦後に子供時代を送ったわれわれの世代なら誰でも知っている、NHKの児童向けラジオドラマとして子供たちのあいだで大人気になった「笛吹童子」「紅孔雀」(東映によって映画化され大ヒットする)の作者である。こういう思いもかけないつながりもまた歴史の面白さである。

 また「父」の妹が、やはり『童話』に投稿し、童話が入選している。宮本家は文の家なのだろう。

 昭和二年、受験勉強の成果があって「父」は慶応の予科に入学する。慶応もまた自由な校風の学校。中国文学者の奥野信太郎など教授というより文人、粋人の風格がある。

「父」が終生、敬愛し、その薦めで沖縄の学校に赴任することになる折口信夫を知るのも慶応で。友人たちも知的レベルが高い。のちに演劇評論家になる加賀山直三という歌舞伎通と知り合い、歌舞伎座に通うようになる。

「父」は神中時代にましてよく本を読む。よく図書館を利用し、日本の古典を読む。クラシック音楽にも関心を持つようになる。

 関東大震災のあと、東京は大打撃を受けたにもかかわらず復興が早く、それまでの江戸の香りが残る町にかわって、車や地下鉄の走るモダン都市が出現してゆく。カフェやダンスホールが出来る。ラジオ放送が開始される。昭和五年には帝都復興祭が行なわれている。「父」はその新しい東京で大学生活を送っている。銀座の資生堂で食事をし、そのあと築地小劇場で芝居を見る。しゃれている。「慶応ボーイ」という言葉は昭和のはじめ頃には定着していたという。

「父」のいちばんの関心は中学時代から児童文学にある。「父」は同世代の児童文学青年たちと交流を持つようになる。同人雑誌に加わる。互いに影響を与え合う。青春とは友情の季節であるというが、「父」は友人を大事にしている。

 なかでも、千代田愛三という少年が興味深い。「父」のようなエリート学生ではない。中学へも行かず世に出て働いている。生け花の師匠になろうとしている。女のような言葉で話す。『羊歯』というガリ版による同人誌を作る。

 一般に児童文学は、良家の子女のためのものとの印象があるが、こういう勤労少年も児童文学に惹かれていたか。「父」も、この少年と知り合ったのは大仰に言えばカルチャーショックだったのではないか。

 千代田愛三は昭和十一年、二十五歳の若さで貧窮死したという。はかない。本書は、こういう世に埋れた文学青年にも着目することで、昭和青春史の広がりを持っている。

「父」の家は神奈川の名家だった。母方の祖父、鈴木太郎左衛門は恩田(おんだ・現在の横浜市青葉区)の大地主だったし、父方の祖父は保土ヶ谷の医師だった。いずれも土地の名士だった。にもかかわらず「父」の家族は決して幸福とは言えない。

「父」の四人の兄のうち三人までが肺病で若くして亡くなっている。改めて、昭和戦前期は、肺病が死病の時代だったのだと痛感する。「父」は兄たちの相次ぐ死を身近かで体験している。

「父」が早熟なのは、早くから死を意識していたからでもあるだろう。

 青春時代には友情のほかにももうひとつ大事なものがある。言うまでもなく恋愛。

「父」の日記にはそれがない。本当になかったのか。それとも日記には秘したのか。冒頭に、《その人》という若い女性が登場する。北村薫さんより十歳以上、年上だという。 この謎の女性が「父」の恋愛に関わるのか。本書の続篇を読みたくなる。

いとま申して
北村 薫・著

定価:756円(税込) 発売日:2013年08月06日

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