〈「ソオッと歩かにゃあいけんよ」広島の平和記念公園で走った私は、なぜ“原爆供養塔”の守り人から叱られたのか?〉から続く
今年は、広島と長崎に原爆が投下されて81年。ウクライナ、イラン、ガザ……戦争が絶え間なく続く今の世界において、大宅賞受賞の名著『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』を思い起こしたい。
本書の主人公・佐伯敏子さんが昭和33年から原爆供養塔の清掃をし続けて13年目の春、ある人から供養塔の地下室(遺骨安置所)の入り口の鍵を渡された。その経緯は本書に詳しく出てくるが、その地下室に佐伯さんは足を踏み入れ、多くの遺骨と向きあう。
それからというもの、引き取り手のない無縁仏として安置された遺骨が一体誰のものか、家族のもとに戻そうと遺族を訪ね歩いて探すようになる。近所の人からは笑われ、後ろ指をさされ、行政に行けば「またあの奇妙なおばさんが来たで」と冷たい目線が突き刺さることもあった。でも、佐伯さんは誰に何と言われようと自分の信念を貫き通した。
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引き取り手のない供養塔の遺骨
――佐伯さんは凛とされていて優しい方だとこの本を読んで思ったのですが、実際にご本人とたくさんやりとりした堀川さんは、佐伯さんに対してどのような印象をお持ちになりましたか。
堀川 もう、普通のちいちゃなおばあちゃんなんですよ。“安芸門徒”でお念仏が大好き、信心深くて。本格的にこの本の取材で佐伯さんにインタビューを始めたのは、佐伯さんが長年住み慣れた家を出て、老人保健施設に入っていた2013年です。当時93歳、出会った頃に比べてさらにひとまわり小さくなっていてね。でも、こといざ広島のことについて語り出すと、あれは佐伯さんであって佐伯さんではなかったというような気が今になってしますけど、まるで言葉を持たない死者がしゃべっているというか、佐伯さんがその思いを代弁しているっていう感じだったんですよね。
「今では思い出す人すらいなくなった多くの死者たちの思いを、この人(佐伯敏子さん)は小さな身体に背負っている。たった一人で死者を悼み、進む風化に抗っている。」
(『原爆供養塔』本文より)
佐伯さんのお話というのは、決して押しつけがましくもなく、説教くさくもないんです。「平和公園をバタバタ走るな」って言うこともそうだけれども、やっぱり、声をあげることもできず亡くなっていった人たちのことを忘れちゃだめだよという思いだけで言葉を発しておられた。
被爆者の中にもいろいろな方がいて、とても言葉厳しく「核兵器反対ー!」と叫ぶ人もいるんだけれども、佐伯さんは決してそうではない。「核兵器反対」なんて言葉は20数年の間で1回も彼女の口から出なかったです。
――行動で示された方なんですね。
堀川 そうですね、よく背中を見ろって言う言葉があるけれども、まさにそれで。
ジーゴロジーゴロのカセットテープ
――佐伯さんはよくお話しされる方でしたか?
堀川 もう喋り出したら止まらない人でした。インタビューの録音にジーゴロジーゴロと音を立てて動くカセットテープを使っていたんだけれども、2時間、3時間と続くので、テープを裏表にひっくり返して録って、さらにまた次のテープを入れて録音し続けました。今はさすがに使ってないけれども、当時はあえてカセットテープで録音していたんです。
――なつかしい。A面B面と、表裏がありましたね。
堀川 そうそう、なつかしい(笑)。最近は皆さん、インタビューするときはICレコーダーや携帯電話の録音機能を使うんだけれども、私はカセットテープが大好きなんです。だって、デジタルデバイスって、保存できる期間という点で、経年劣化や自然放電が起きて意外と短いんですよ。
たとえば私たちがDVDとかCDとかでよく映像を保存していたでしょう? あれはどんどん劣化して10年持たない。だけど、カセットテープの「ジーゴロジーゴロ」は超アナログだけど、50年経ってもカセットデッキさえあれば聴くことができます。テープは伸びちゃったりするけど修復できるし。元死刑囚の永山則夫について本に書くために(『永山則夫 封印された鑑定記録』)、40年以上前の永山の精神鑑定で使われた彼の音声が吹き込まれたカセットテープを百何時間全部、クリアに再生できました。歴史的な取材資料です。(力を込めて)だから私は、すっごい大事な取材のときはカセットテープを本当は使いたい。こう言うとみんなに笑われるんだけど(笑)。
堀川惠子が取材で大切にしているポリシー
――取材をするとき、大切にしている信条などありますか? 真実の掘り起こしともなれば、門戸が閉ざされているような相手のところに取材にいくことが多いですよね?
堀川 基本的に、人が話したくないことを聞かせてくれって行くのがノンフィクション作家の仕事なので……心がけていることって言ったら、こちらを全部さらけ出すだけですよね。とにかく虚勢を張らない。
――知ったかぶりをしないということでしょうか?
堀川 そうです。人の心なんて、分からないことだらけですから。難しいのは、取材の手法や接し方において、ある人にはうまくいったことが、また別の人にうまくいくとは限らなくて、人それぞれ違う。結局、いろいろな人を取材してきて私が落ち着いた結論は、虚心坦懐(きょしんたんかい)にお話を聞かせてほしい、というスタンスでい続けることですね。もちろん、戦わなきゃいけないときも出てくるけど。
――戦うとは、どういうときでしょうか。
堀川 うーん、たとえば、相手の嘘や矛盾に気付いたとき。「それは嘘ですよね」とは言わずに、自分の中に置いて熟成をさせる。なぜこの人はこういう嘘をつくんだろう、とか、なぜこういう言葉が出るんだろうっていうことに思いをめぐらして、その人の心情に少しでも近づくために“嘘”も大事な一つの足がかりにします。つまり、自分と闘うんですね。
――この『原爆供養塔』の取材のときも、そんなことはありましたか?
堀川 たくさんあります。ご遺族のところへ伺ったら、みなさんやはり当然辛くて思い出したくない話ばかりですから、自分は関係ないというような拒絶もされたし、“嘘”のストーリーをつくって取材をそれ以上受け付けないような方もたくさんいらした。でも、そういうところからちょっとずつちょっとずつ、「竹刀」を決して手放さず、剣道でいうところの「間合いを詰めていく」という感じで、でも相手に恐怖感を与えないように心がけながら話を伺っていきました。
――『原爆供養塔』では、少年特攻兵の存在も出てきます。若い命が真っ先に脅かされるという戦争の厳しい現実が描かれています。
堀川 広島市沖に浮かぶ江田島は海軍兵学校の島として知られていますが、実は同じ島の北側の幸ノ浦地区に陸軍の“秘密基地”があった。昭和19年8月以降、全国から少年兵が集められ、米軍の本土上陸に備え、迎え撃つための特攻隊として訓練を日々行っていました。でもそれが、原爆が投下された直後に、市民の救護のために爆心地に向けて出動し、放射能で汚染された死の街で、原爆で亡くなった人たちの死体を焼いて葬る仕事を担い、二次被爆をすることになります。
8月6日当日の昼すぎには、先発隊の100人が被災者が運ばれてくる似島へとすぐに送られた。そして、残りの少年兵たちで救援隊が組まれて、燃え盛る広島市内に続々と送られていった。
それもいってみれば、戦争の一面なんですよね。機動力からいえば江田島にいた海軍兵学校の若者たちの方がはるかに優れていたと思う。だけれども、そういった人たちは将来の戦力として温存されて、この言葉はあまり好きじゃないけれども、名もなき10代の陸軍の特攻要員の若者たちが、いの一番に投入されていった。彼らは全国津々浦々、農村漁村から根こそぎ動員で集められた少年兵たちで、戦後、郷里に帰ってから、多くが若くして亡くなっています。それが原爆症によるものなのか、何のデータも残されていません。
(3回目に続く)







