──脇役の描き方が今までと違うように感じます。
金原 今回の短篇集においては、脇を固める人は常識的な人ではいけないと思いました。主人公の女性・神田憂のように自分の中に分裂や違和感を抱えて生きている人というのが第一条件としてありました。そういう人たちと接触することで主人公は更に現実感を失っていくんですが、実はそれが現実に近づいているという事なのでは、という逆転が欲しかったんです。現実をより現実的に描くために最適な材料としてあの三人を選んだのだと思います。三人のぶつかり合いによって、火花のように現実感が飛び跳ねるというような。
──神田憂の憂鬱は暗いというより躁的な憂鬱ですが、こういう描き方は最初から考えていたのでしょうか。
金原 以前は憂鬱は嫌なもの、良くないもの、みたいな考え方がありましたが、今はむしろ憂鬱なのは当然で、そこから何をするか、憂鬱を自分の中のどこに位置づけるか、という事が重要になってきていると思います。最近色々な所で人間の終わりというテーマの批評を目にしたり、話を聞く事が多く、小説を書く時にもそういった人間性の変化を意識する事が多いです。「憂鬱」に関しても、これまでの概念を覆して、憂鬱があってこその人間ではないかという事を書き表したかったんです。「憂鬱であるべき」とは思いませんが、憂鬱を肯定したところでしか語れない事が増えてきたように思います。普通に毎日楽しく幸せに暮らしていくのが当然だと思って生きていくなんて、もう不可能だと思うんです。憂鬱な毎日の中に、ぽつぽつと楽しい事が起きる、そういう方が現実的な状況ではないかと。
──失礼ですが、金原さんも憂鬱な状態なのでしょうか。作家の方であまり脳天気な方はいないと思うのですが。
金原 私は誰しもが慢性的な憂鬱を抱えているように思います。でも、憂鬱なのが当然の事であれば、憂鬱でない人、憂鬱でない振りをしている人、憂鬱ではいけないと思っている人の方がおかしいわけで、私自身自分の憂鬱を肯定しそれを土台にした事で、割と生きやすくなったように思います。この短篇集を読んでいると、主人公がキチガイのように見えるかもしれませんが、むしろキチガイは周りの人間たちや状況であって、神田憂はごく真っ当な女性なのかもしれないという風に見えてくるようにしたかったんです。現代の社会が大きな権力によって狂わされているというテーマもあって、資本や政治など、無意識の内に人をコントロールしている機関があって、人間は知らず知らずの内に飼いならされ家畜のような存在になっている。そういう状況下で個人が無意識を解放していくと、狂人のような扱いを受ける。そんなにっちもさっちもいかない状況があると思うんです。
-
『赤毛のアン論』松本侑子・著
ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。
応募期間 2024/11/20~2024/11/28 賞品 『赤毛のアン論』松本侑子・著 5名様 ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。