──官能的な描写が各篇で形を変えて出てきますね。
金原 この短篇集では、例えば憂鬱と同じぐらいの比重で性を捉えています。「聖なる領域」だった性が日常にまで降りてきているというか。かつて小説は性的な事に過剰な意味づけをしてきたような気がします。でも、「憂鬱」と同じように「性」というものもただの現実であって、そこには既に大きなタブーや幻想はありません。そういう状況の中で、神田憂は自分が「憂鬱」のエキスパートだと主張し、「憂鬱」を唯一のパートナーと認めている。性欲に関しても、日常の中にある自分自身の一端であるという、ごく自然で動物的な感覚を持っていると思います。
──七つの作品それぞれに大きな冒険が描かれるわけではないのですが、人と人の関わり方が笑いを生み出しています。純文学なのに笑える、という事は非常に貴重だと思います。
金原 私は小説イコール教養だとは思っていなくて、自分自身、何かしら楽しみながらじゃないと読めないんです。もちろん、何かを学ぶための読書というのも必要な時はあるし、楽しくない事こそが醍醐味(だいごみ)といった小説もありますが、私は出来るだけ苦痛の少ない読書の方が伝わるものが大きいと思っています。そうは言っても、私の小説を読むのがとても苦痛だと言う人もたくさんいますが。
今回の『憂鬱たち』では、意識的な生き方というのが限界に達しているという事を、一人の人間の日常を切り取る事によって表したいと思いました。弁証法的な人間、人間性を前提にした思考というのが現実に通用しなくなっているからこそ、意識を捨て、無意識を解放した所から見えてくる現実というものを描きたいと。人は、放っておくとストーリーやドラマに搦(から)め捕られ、簡単に現実を見失ってしまうものだと思います。だからこそ、この本では主人公の過去も未来も描かず、ただ単に一人の女性の暇な一日を一篇一篇端的に書きました。ストーリーにもドラマにもヒューマニズムにも依存しない、ただ空っぽな一人の人間。そういう人間が、ストーリーやドラマがないが故に、不意に現実にちりばめられた夢への落とし穴に嵌(はま)り込んでしまうような、そういう瞬間を切り取ったつもりです。
──そういう意図が見え透いている作品ではないですね。深いのですが、同時に何よりも楽しく読めます。
金原 私は、小説はこうあるべきだというのはないんですが、「実験的」と言われるのは何となく抵抗あって、『AMEBIC』(集英社刊)なんかはもちろん、実験的である事を意識して書いていたんですが、今回はもっと、トイレやキッチンやベッドみたいに、ごくごく日常的でありながらそこに未知の世界が潜んでいるような、そういう小説を書きたいと思ってできた短篇集です。
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