「エプスタイン事件」とは、高校の数学教師から金融界に転身し、巨万の富を手にしたアメリカ人のジェフリー・エプスタインが、全米各地の豪邸やカリブ海に所有する島で少女や若い女性たちをレイプし続けた事件だ。エプスタインは自身が所有する邸宅や島に世界的に名を知られる各界の著名人を多数招いており、その中にはのちにエプスタインが用意した少女への性虐待で告発された者もいる。
エプスタインは2006年に少女ら数十人の買春や売買春の斡旋などの容疑で逮捕され、終身刑が科される可能性もあったが、司法取引の結果、罪をわずか2件だけ認める形で他の容疑は不問とされた。この常識では考えられない司法の判断に対して、被害者たちは告発の声を上げ、2019年7月、性的人身売買の容疑などでエプスタインは再び逮捕された。今度こそ、その悪行に見合った罰が科されるかと思われたが、エプスタインは翌8月に獄中で自殺した。ただし、死後7年が経つ今も他殺説が囁かれて止まない。
死因以外にもエプスタインには多くの謎が残されている。米国司法省とFBIが捜査した際にエプスタインのコンピュータなどから押収したメール、文書、プライベートジェットの飛行記録、画像や動画を中心とする計600万件もの資料は「エプスタイン・ファイル」と呼ばれており、その全公開が求められた。だが、トランプ政権は公開を阻止しようとし、公開推進派との間に激しい攻防戦が起こった。その結果、2026年1月までに全体の約半分の計350万件が公開となった。
半分とはいえ、公開後すぐにファイルに名のあった著名人たちが社会的制裁を受けた。ファイルに名前があることは必ずしも小児性愛者であることを意味しない。しかし、エプスタインが少女たちに性虐待していることを知りつつ交流した可能性がある以上、モラルが欠如しているとみなされ、辞職に追い込まれる者が相次ぎ、大きなスキャンダルとなった。
2026年8月現在、トランプ政権はこれ以上の公開はおこなわない態度を示しているが、全面公開を求める闘いは今も続いている。
なぜこれほどの問題になったのか
エプスタインの小児性愛サークルに、アメリカのドナルド・トランプ大統領が属していた証拠が含まれているか否か。この問題が、エプスタイン・ファイルの公開が注目を集めている最大の理由である。
エプスタインは政財界やIT業界に強力なコネクションがあり、トランプ大統領、マイクロソフト設立者のビル・ゲイツ、元大統領ビル・クリントン、英国のアンドリュー元王子など、世界的なVIPと親交があった。これらの著名人たちはそれぞれに身の潔白を主張したものの、世論は懐疑的なままだ。しかし、現大統領のトランプについては小児性愛への関与の有無がアメリカの社会と政治を大きく変える可能性があり、他の著名人に対する関心をはるかに超えた問題となっている。
アンチ・トランプである民主党などリベラル勢力は、トランプは小児性愛に関わっており、エプスタイン・ファイルを公開することでそれが証明できるとして、ファイル公開を求めている。
他方、トランプの熱烈な支持層であるMAGA(Make America Great Again:アメリカを再び偉大に、の頭文字。マガ。当初はトランプの大統領選キャッチフレーズだったが、トランプの熱烈な支持者を指す言葉となった)もまた、エプスタイン・ファイルの公開を熱望している。ファイルにはリベラルや民主党の大物が含まれており、その名を連ねた「顧客リスト」を公開することで、米国を陰で操る闇の政府「ディープステート」を一掃できるという陰謀論に立っているからだ。MAGAは、トランプ自身は小児性愛に関与していないと考えており、ファイルを全公開しないトランプ政権に激しい苛立ちと怒りを見せている。
つまり、現在のアメリカを真っ二つに分断している双方が、他方を突き崩すためにエプスタイン・ファイルの公開を望んでおり、トランプ政権は両サイドから公開を求めて責められているのだ。
トランプとエプスタインが古い友人であったことは周知の事実だが、トランプ自身は小児性愛にはまったく関わっていないと主張している。そうであるならば、ファイルを完全公開して身の潔白を証明することこそがトランプにとって最善の策となるはずだ。2026年11月に中間選挙を控えながら、主にイラン戦争が理由で支持率が下がっている今はなおさらだ。しかし、トランプはファイルの全面公開を望んでいない。ファイルの半分が未公開である以上、トランプの小児性愛への関与は不明だが、トランプ自身も過去に多くの女性から性的暴行やセクシュアル・ハラスメントで告発されてきた人物であることもまた事実である。
事件を4つのグループから検証する
エプスタイン事件において、小児性愛犯罪に関与したとして逮捕されたのは、米国ではエプスタイン本人と、当時エプスタインの恋人であり、少女たちのリクルートとグルーミング(候補者のピックアップと事後のケア)を担当していた英国人女性のギレーヌ・マクスウェルのみである。彼らとの関係が取り沙汰される「顧客リスト」は公開されておらず、全容は闇の中だ。
エプスタインとマクスウェルの逮捕に大きく貢献したといえるのが、被害者の中で最も積極的に2人を糾弾したヴァージニア・ジュフレイだ。ジュフレイも含め、すでに成人となっている元少女たちは自らを被害者ではなく、サバイバー(生き残った者)と呼ぶ。
しかし、ジュフレイは2025年4月に自ら命を絶ってしまった。10代の時期に心身ともに深く傷つけられた元少女たちは、長年にわたってそのトラウマに苦しんでいる。その苦しみに決着をつけるべく、サバイバーたちはエプスタイン・ファイルの完全公開を目指し、今も声を上げ続けている。
トランプ政権はエプスタイン・ファイルの公開阻止に全力を傾けてきたが、トランプの最も熱烈な支持者であるMAGAからの公開要求の激しさを十分に理解せず、大きく対応を誤り、現在に至るまで大きな混乱を招き続けている。
対して、米国連邦議会下院の監視・政府改革委員会(以下、監視委員会)は、エプスタインと関わりのあった著名人たちを召喚し、証言録取(証人から証言を取得する手続き)によって事態を明らかにしようとしている。社会をリードすべき立場にある各界の著名人の証言は及び腰なものが多いとはいえ、彼らとエプスタインの深い関係はアメリカ社会に大きな驚きと怒りをもたらした。
このように概観すると、エプスタイン事件には、異なる2つの側面があると言えるだろう。
ひとつは、エプスタインが生涯にわたっておこなった、少女と女性たちへの執拗な性加害の邪悪さと異常性である。その被害者であるサバイバーたちは、それを生き延び、トラウマを乗り越えようと挌闘している。
もうひとつは、エプスタイン事件によって始まった、アメリカ社会にくすぶる巨大な悪に対する今も続く闘いである。
エプスタインの小児性愛犯罪に加担・協力していた者たちはもちろん、それをうすうす知りながら目をつむってエプスタインと関わっていた者たちには共通項がある。いずれも富・名声・権力を持っていることだ。エプスタインはその莫大な資産と世界的なコネクションによってプライベート・アイランドまで手に入れ、社会に大きな影響力を持つ著名人や富豪たちと交わり、さらなる資産とコネクションを築いた。エプスタインに関わった者たちはエプスタインを中心とする特権階級の閉じたサークルを作り上げ、そのサークルの中で被害を受けた少女たちの人間性を顧みることはなかった。
彼らは社会的に名のある者たちであり、エプスタインの所業がすべて世に公開され、自分の罪が明らかになれば連座的に破滅する。そうした者たちが保身のためにエプスタイン・ファイルの公開を必死に食い止めようとしていることがうかがえる。対するサバイバーは、ファイルの全公開こそが自分たちの過去に決着をつける唯一の方法であるとして、公開を強く求め続けている。
日本ではジェフリー・エプスタインの知名度が低かったことから、逮捕された時期でさえ事件に関する報道は少なかった。さらにエプスタイン・ファイルの公開/非公開がアメリカのみならず欧州各国やオーストラリアまで巻き込む騒動となっていること、大統領のトランプが深く関わっているかもしれないということも、詳しくは報じられていない。
そこで本書では、エプスタイン事件とは何か、なぜこれほど大スキャンダルとなったのか、そして、なぜこの事件がアメリカの政治を激しく揺るがしているのかを掘り下げる。
また、本書では事件の経緯と現状の理解を促すために、現地メディアの報道などを整理しながら、エプスタイン事件とエプスタイン・ファイルに関わりのある人物たちを4つのグループに分けて検証する。
張本人であるエプスタインと共犯者および交流のあった者たち。エプスタインの性犯罪の被害者となった女性たち。エプスタイン・ファイル公開を阻止しようとするトランプと政権メンバー。そして、ファイル公開を目指す人々の4つである。そうすることで、アメリカの富と権力がどれほど強大で、しかし、その裏でどれほど腐敗しているかを明らかにし、それと闘う人々の姿を描いていきたい。
「はじめに」より






