勇気を振り絞ってセクハラの証拠を手に入れ、刑事告訴したモデルは、よってたかってメディアに「売春婦」のレッテルを貼られ、不起訴にされた――。『キャッチ・アンド・キル #MeTooを潰せ』(ローナン・ファロー著)が描くのは、映画界の大物プロデューサーにして強姦魔、ハーヴェイ・ワインスタインを頂点とした、「あったことをなかったことにする」巨大なシステムだ。そのシステムに正面から挑んだ著者の壮絶な闘いを描き、ピューリツァー賞に輝いたジェットコースター・ノンフィクションの解説を公開する。
権力者のスキャンダルを買い取るメディア
自分の仕事を遂行するために、遺書を書いた経験を持つ人はどのくらいいるだろう。
アメリカのTV局で働いていた調査報道ジャーナリスト、ローナン・ファローは本書のテーマを取材中、「もし僕に何かがあった場合には、この情報をきちんと公開してもらうよう」と記し、取材データとともに銀行の貸金庫に預けたと綴っている。
二〇一七年に性暴力の歴史を世界的に動かした#MeToo運動は、本書に描かれるローナンの活躍、そして同時に同じテーマを取材していたニューヨーク・タイムズ紙の二人の女性記者による記事に端を発している(二〇一八年、ともにピュリッツァー賞を受賞)。
大物プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインが若い女性たちを食い物にする行為は、ハリウッドでは悪名高いジョークとして語られるなど、周知の事実として長く見過ごされてきたことだった。本書のタイトルになっている「キャッチ・アンド・キル」とは、メディアが権力者のスキャンダルネタを、もみ消すために買い取る行為を指す。そうしたメディアは、立場の弱い告発者のスキャンダルや根も葉もない中傷記事を流したりもする。ハーヴェイ・ワインスタインほどの大物になれば、告発を受理して捜査を行うはずの地方検事局を動かすこともできる。ワインスタインは数十年にわたり、直接的、間接的に、こうした悪夢のような告発潰しを繰り返してきたのだ。
本書でローナンは、このメインテーマだけでなく、その裏側で起きていたプライベートな出来事、家族との関係性や葛藤など、彼自身の人間的な部分も赤裸々に綴っている。
そして取材が深まっていくにつれ、ローナンは加害者本人のみならず、自身の所属するテレビ局の上層部や元モサドの工作員に至るまで、ワインスタインが掌握している人脈からの攻撃を立て続けに受けることになる。
読み進めるたびに、人生をかけて取材を続けてくれたこと、事件をもみ消そうとする多くの勢力からの脅しに屈しないその姿勢にインスパイアされる。
その行動は仕事としての労働の域をはるかに超えて、自身の信念、正義など様々な覚悟がなければできないことだろう。ローナンの長期取材は、性暴力という個人の加害だけでなく、それを隠蔽し続けてきたメディアや社会のシステムに光を当てているのだ。
このテーマは私個人にとっても、決して遠いものではない。私自身が、性暴力の被害者でありながら、自分の事件の真実を追求するジャーナリストであった。今では笑い話だが、事件を取材している最中、私も彼の遺書にあるのと同じ言葉を書き記したことがあった。
ジャーナリストと取材対象者という、関係性上本来はタブーとされる一線を越えてまでも、自身で真実を追求しなければならなかった道のりは、ジャーナリズムへの希望を持っていたからこそ越えることができた。
しかし、被害当事者として、あるいはその家族や友人として生きていくことは、口でいうほど容易ではない。
父、ウディ・アレンの性暴力スキャンダル
本書にはローナンがワインスタイン側から、自身のプライベートな体験と取材テーマが重なるため、ジャーナリストとしてこのテーマに相応しくない、バイアスがあるのではないか、と批判を受けたことが記されている。
ローナンの父である映画監督、ウディ・アレンが、当時七歳だった養女(ローナンにとっては義姉)のディラン・ファローに対して行った性暴力によって、ディランはその後も長く苦しんできた経緯が、本書には描かれている。
近しい人が性暴力で苦しんできた、その姿を目の当たりにしているからこそ、彼はこの犯罪(そして犯罪とされてこなかったことも含め)にメスを入れることを諦めなかったのだ。性暴力は被害当事者だけでなく、その周囲にいる人々にも大きな影響を与える。家族の間に容赦無く溝を作り出す。友人だと信じていた近しい人を失うこともある。
実際ローナンは、過去に囚われてほしくないという思いで発した「どうして過去にこだわるの?」という言葉で、姉に沈黙を迫ってしまった自分に対する後悔の念を綴っている。
一方で、この長い取材期間中、著者にとって姉は大きな存在だったように感じる。彼女は要所で必要なアドバイスを彼に与えている。
家族の中で起きた性暴力とどう向き合ってきたのか、自分はどうありたいか、姉の言葉をどうしたらもっと聞けたのか、そんな葛藤が聞こえてくる。この本はある意味で、姉に対するラブレターでもあると思う。
バイアスのない取材など存在しない
私個人は、バイアスのない取材なんて存在しないと考えている。私たちは意識的であれ無意識的であれ、自らの判断で取材対象を選び、使う言葉を選ぶ作業を繰り返しながら取材を重ねていく。だからこそ、情報の受け取り手は、ただそのままを受け取るのではなく、そこにバイアスが存在する可能性を常に意識しながら、時に記者目線、時にインタビューに応じた当事者目線になってニュースと向き合うことが、様々な情報が溢れる今だからこそ、求められているのではないだろうか。
二〇二四年四月二十五日、この文章を書いている最中に、ハーヴェイ・ワインスタインの事件に新たな展開があった。ワインスタインに対し、二十三年の禁錮を言い渡した二〇二〇年の一審判決を、ニューヨーク州の最高裁判所が破棄したのだ(ワインスタインは二〇二二年にカリフォルニア州でも有罪となり、禁錮十六年を命じられている)。
このニューヨーク州での裁判では、約一〇〇名の被害者が名乗り出ていたが、結果的に起訴できたのは二名のケースだけだった。今回の最高裁による判決破棄は、現在のアメリカの司法で過去の性暴力を立証することがいかにむずかしいかを示している。本書で詳細に綴られているように、数えきれないほどの女性たちが証言しているのにもかかわらず、だ。
司法の下す判断は社会の規範を示すべきものだが、現実には、その時代の法律が切り取れる限りの「ある形」を示しているにすぎない。そしてそれは、司法の改善すべき点を浮き彫りにしてくれるのだ。実際にアメリカでは、性犯罪に関する公訴時効の期間が延長されるなど、#MeToo運動の後にいくつかの法改正が行われた州もある。こうした動きは、アメリカ国外でも積極的に広がっている。スウェーデンでは「No means no」から「Only yes means yes」、つまり、「不同意」性交がレイプとされていたところから一歩進み、「積極的な同意」がなければレイプと見なされることになった。
世界にこだまする#MeTooの声
本書に綴られた一連の報道が明るみに出てから今年で七年。いまでも#MeTooの声は世界各地にこだましている。日本では二〇二三年に、それまで報じられても大きな動きにはならなかった芸能界の大物・ジャニー喜多川による性暴力事件が、BBCの報道をきっかけに大きく動くことになった。
しかしこのケースは、一九九九年に週刊文春がジャニー喜多川の性的加害について報じたものを再度検証、そしてさらなる取材を重ねて世に問うたものであった。当時、ジャニー喜多川とジャニーズ事務所は、名誉棄損で文藝春秋側を訴えたが、性的加害(当時はセクハラと記されている)については最高裁まで争って文藝春秋が勝訴。にもかかわらず、他のメディアは後追い取材をするわけでもなく、ジャニーズ事務所に対して特別な対応もされず、結果として、その後も加害が終わることはなかった。
今回のBBC報道が大きな反響を呼んだのは、#MeTooにより、世界的に性的暴力を許さない土壌が出来上がりつつあったことも後押ししているに違いない。
この事件は、大手芸能事務所の隠蔽行為、長期にわたるマスメディアの沈黙など、ワインスタインのケースとの類似点が多いが、日本でも加害者だけでなく、それを守ってきた周囲のシステムについて、もっと多くのことが報じられるべきであろう。
本書は、単なるジャーナリズムについての書籍ではない。多くの女性の痛ましい歴史と、それに立ち向かう真摯な言葉が詰まった未来へのメッセージなのだ。正義を追求するこの物語は、私たちは一人ではなく、共に立ち上がり、声を上げれば社会は変えられることを証明してくれている。
一歩進んで、また押し返されたとしても、ここに刻まれた言葉は一生消えることなく私たちの心に残り、確実に社会を変えたのだから。
この文庫版の刊行を通じて、より多くの人々が『キャッチ・アンド・キル』を手に取り、調査報道の重要性、権力や大企業という大きなシステムに屈しない著者の姿勢に触れることを願う。(文中敬称略)
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