吉村昭・津村節子夫妻は、私にとって今も昔も憧れの夫婦である。初めて読んだ津村作品は、津村が初めて小説家夫婦を描いた『重い歳月』で、実家の母が読んで書棚にしまっていたものだった。吉村の小説を先に読んでいたため、その妻はどんな小説を書く人なのだろうという興味から手にとった。事実に還元するような読み方は自制しながらも、小説家夫婦の日々を赤裸に描いた小説の、いったいどこまでが本当でどこからが本当ではないのだろうと想像をめぐらせた。無から物語を生み出す作家の業の深さを思った。
それからは、さかのぼって、津村の小説の中に二人を探すようになった。小説家を目指す志郎と妻の春子が東北と北海道を放浪して衣料品を販売する姿を描いた「春遠く」「風花」「さい果て」「青いメス」。寸暇を惜しんで小説を書き始めた同人誌作家の志郎と、志郎の一挙一動に振り回され、なかなか顧みられない春子を描いた「玩具」。ここまで小説家を目指す夫とそれを健気に支える妻を描いてきた津村が、ついに、物を書く妻を登場させたのが「重い歳月」だと知った時、そこに至るまでの小説的な試行錯誤に圧倒された。
がん闘病を描いた小説には不謹慎な言葉であることを承知でいうのだが、そんな読者にとって『紅梅』は、読者サービス満載の目がくらむようなクロニクル小説なのである。夫の闘病生活と併行して、走馬灯のように二人の作品や関係する作家たちが次々と登場し、過去が呼び起こされる。二人の小説や随筆を読んだことがあるならば、クイズを解くようにまずタイトルを思い出し、あらすじや登場人物、物語の断片を思い浮かべ、先輩作家や友人作家の名前を想起し、そのうちまるで弦楽四重奏を鑑賞しているような気持ちになるだろう。
夫と弟と手伝いの少女との奇妙な三人暮らしを描いた夫の小説は、吉村の「さよと僕たち」。看護師への御礼に育子がサインをして渡した宇和島の真珠養殖の話は、津村の「海の星座」。老女が末期がんの夫を絞殺した新聞記事を題材にした夫の短編は、吉村の「山茶花」。日本で最も古い歴史をもつ越前和紙をテーマにした育子の小説は、津村の「花がたみ」。このほか、津村の「智恵子飛ぶ」「土恋」「海鳴」「流星雨」「黒い潮」「白百合の崖」……、吉村の「冷い夏、熱い夏」「日本医家伝」「戦艦武蔵」「彰義隊」「死顔」「光る壁画」「高熱隧道」「闇を裂く道」「破獄」……など、単行本と短編あわせておよそ四十作は登場するだろうか。それは、二人がまさに小説を生きた夫婦であることの証であり、だからこそ、育子が最後に夫に叫んだ言葉が真に迫って響くのである。
最近、「転機 吉村昭の手紙」と題する津村の随筆が発表された(「オール讀物」二〇一三年五月号)。夫婦で交わした手紙を焼き捨てるつもりだったところ、編集者に強く止められて、その一部を公開したものである。知り合いの若い編集者がこれを読んで、自分の中の吉村昭像が一変したと話していたのでさっそく読んでみたところ、私はむしろ、吉村昭はこうでなければと得心する思いだった。
それは、吉村が、世界で初めて心臓移植を行った南アフリカのバーナード医師と患者の周辺を取材する長旅に出た時の手紙である。夜間の外出が制限されている中で、手紙を書くことだけが楽しみだったらしく、毎晩のように津村に手紙を書いている。ところが、取材のことはほとんど書かれていない。「帰ったら銀座へ行って服を買おう、お金を切り詰めてロンドンで土産を買うから何がほしいか、とか、淋しいだろうから、ショッピングでもして気をまぎらしなさい、などと書いているが、淋しいのは自分なのだ」。津村がそう書いているのが微笑ましく、クスッとふき出してしまった。
吉村はそのあと、第二例の手術が行われたニューヨークにも立ち寄っているが、言葉がうまく通じず、心細くてならない。夜の町を黒人がチェーンを振り回しながらついてきたので、近くのホテルに客を装って急いで駆け込んだ日には、「帰りたい 帰りたい 帰りたい 帰りたい」と、便箋の三分の一を使って書かれていたという。
吉村の旅はいつも、ひとり旅だった。小説のための取材旅行以外に旅はしなかった。取材の旅でも、用事が済むとすぐ帰路につく。ついでに観光を楽しむということはない。とにかく早く家に戻りたい。一刻も早く、書斎で小説を書きたい。吉村は、そんなことをたびたび随筆に書いていた。「おれはただ書いていればいいんだ」といって。
そんな吉村は、人知れず、家で病と闘い、家で最期を迎えた。それは、吉村が千人分の不義理をしても守りたい時間だったからではないか。「いいから、おまえだけ書けよ」と、作家・津村節子に捧げるために。
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