三山が自らの位置を公田耕一とは乖離(かいり)しているとする認識はこの作品に通底するものであり、公田耕一と同一視すればするほどそれを否定しようとする著者の謙虚さは読者に強い印象を与える。
「野宿者の最も本質的な部分、つまり帰るべき家を失うという退路を断たれた感覚は、本物のホームレスにならなければ、絶対にわからないことである」(本書14ページより)
しかし、「本物のホームレス」である公田耕一もまた「本物のホームレス」らしくはなかった人であることが明らかになっていく。三山は公田が自分のように生き延びる上では余計な自意識を持った人であったと推測する。そして、「朝日歌壇」読者の多くが公田に感情移入したのは「最近まで“自分たちの側”にいて、転落してしまった人に違いない」と受け止めたからであると考える。
問題はなぜ公田耕一が“自分たちの側”から転落していったかである。
公田耕一に冬のイメージがあるのは、「朝日歌壇」に彗星のように現れたのが十二月八日であったことと関係があるのだろう。
三山の本のタイトルは『ホームレス歌人のいた冬』となっているが、公田耕一が歌壇デビューしたのはただ冬であっただけではない。
「それもリーマンショックに続く冬、年越し派遣村のあった『あの冬』である」
その年の冬、これまでと違い、路上で寝ようにもどうしたらいいかわからない人たちまで、大勢放り出されたのだと、三山は支援者から聞いた。
公田耕一なる人物については、当初からシニカルな見方がなかったわけではない。
「不況に苦しむ弱者を詠みたかった」ために「選者や読者の心をつかむ」目的で自らの身分を偽ったとする「身元詐称疑惑」などはその代表的なものである。
石川啄木の「ぢつと手を見る」と比較して、公田の歌に「手」即ち「焦点を絞って感情移入をした作品が少ない」という指摘などは、なるほど短歌的に首肯できる指摘である。
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