本書は、ポストモダン環境におけるサバルタンとして動物化する世界内存在の実存的危機に対する権力の新自由主義化を脱構築した好著――ではない。せめて夢の中でいいから裸の看護婦さんに出会いたいという妄想を語った本でもない――ただしこれは当たらずといえども遠からずかもしれないが。
土屋賢二氏は笑えないユーモアエッセイと笑えるピアノ演奏でおなじみの変なおじさん(またはおじいさん)として世に知られている。しかし、物の本によるとお茶の水女子大学で哲学を教えていたことがあるらしい。
哲学と聞いたときに私たちが思い浮かべるイメージは大きく2つに大別される。ひとつが、偉人の言行録などから人生の教訓を引き出す、いわば人生哲学のイメージ。そしてもうひとつは、難しい顔をした人が難しい単語で深遠なる人間の真実とかを語るイメージである。しかし本書で語られる哲学はこのいずれともかけ離れている。語られるのは思考における言語の役割に注目した哲学的思考法入門だ。
本書の冒頭で提示され、終章でその解決の仮説が提示される問題が、「裸の看護婦さんが出てくる夢を見た」に対する「裸なのになぜ看護婦さんだと分かったのか?」という疑問である。ちなみに、ナース帽を被っていたからではない。この問題を軸として「“知る”とは何か」という哲学的な問いに関する解答が示されていく。
サブタイトルである「なぜ人間は八本足か?」という問いを用いた解説も非常に論理的かつ戦略的である。「なぜ人間は八本足か?」が無意味な問いであることは誰にでも理解できる。一方で、「ロウソクの火は消えるとどこに行くのか」という問いはどうだろう。ちょっと深遠で哲学っぽく感じるかもしれないが、両者の論理構造は同じだ。明らかに無意味な問いと同じ構造をもつ問いはやはり無意味であろう。このような対照によって、意味とはなにかを明らかにしていくプロセスには新鮮な知的興奮を感じさせられる。
日常の言葉とあまりにもかけはなれた用法、または実生活の中では用いられることのない造語を使うことで創造(あるいはねつ造)された「哲学的な問い」は少なくない。ここから、少なからぬ「哲学的な問い」は言葉の誤った使用法によって生まれた疑似問題であるという哲学観が導かれる。このような立場は哲学史上では分析哲学と呼ばれる。専門的には議論があるところだが、後期のヴィトゲンシュタインなどに代表的に見られる立場である。
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