あるとき、〈杖ことば〉という言い方を耳にしました。
ともすれば、しゃがみ込みたくなるようなとき、人生の苦難の旅路(たびじ)を共に歩き、その一歩一歩を杖となってささえてくれる言葉をさすのだといいます。
人間は言葉によって傷つき、また言葉によって癒(いや)され、救われることはもはや当たり前のことでしょう。
ことに日本人は昔から、言霊(ことだま)といって、言葉には霊(れい)が宿(やど)り、特別な力があると信じてきました。
日本だけではなく、東洋の宗教やヨガの行者(ぎょうじゃ)は、神仏(しんぶつ)への祈りや讃歌(さんか)をマントラという短い真言(しんごん)にこめて唱(とな)えてきました。
キリスト教文化では、言葉をロゴスといい、新約聖書(しんやくせいしょ)の中で、「はじめに御言葉があった。御言葉は神とともにあった。御言葉は神であった」と書かれています。
洋の東西を問わず、言葉は単なる言語の働きを超えた力ある実体と考えられていたようです。
杖ことばとは、そのような霊力ある言葉が杖の形に変化して、倒れそうな人間をささえる、そういうことなのではないかと思います。
私自身、もう駄目(だめ)だと思うときに、いくつかの言葉によって、ささえられて、今日まで生き延びてきました。崩(くず)れ落ちそうな自分、もう諦(あきら)めてしまいそうな自分をささえ、再び立ち上がらせ、もう一歩進んでみようかという気にさせてくれるのが、杖ことばなのです。
それは、人生、かくあるべきだといった、大上段(だいじょうだん)にかまえた箴言(しんげん)、金言(きんげん)ではなく、もっと、もっと、さりげない言葉、素朴(そぼく)な言葉のような気がします。
日々の暮らしの中で、どうにもこうにも行(い)き詰(づま)り、立ち止まってしまったとき、その言葉を思い出し、固まった心身をほぐしてくれるようなもの。
例えば、長い連載(れんさい)小説を抱(かか)えているとき、どうしても、アイディアがうかんでこないで、もう投げ出してしまいたいような衝動(しょうどう)に駆(か)られることがあります。
そんなとき、ふと心の中で、響(ひび)いてくる言葉があります。
「継続(けいぞく)は力なり」
そのことわざに妙に納得させられるのです。
そうか、継続は力なりか!
不思議なことに、その言葉がひとつの“てこ”となって、そっと背中を押してくれるのです。そして、もう一歩を押し出してくれるのです。
重い荷物を背負って、山を登らなくてはならないとき、ヨッコラショと、自分自身に掛(か)け声をかけて、立ち上がる。そのヨッコラショ、に当たるのが、杖ことばなのではないでしょうか。
修行(しゅぎょう)で霊山(れいざん)に登る人たちは、山伏(やまぶし)の格好(かっこう)で、金剛杖(こんごうづえ)をつき、「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」と唱えながら、一歩一歩進んでいきます。
ここに紹介する言葉は、みんな、私が日々の暮らしの中で、つらいなと感じるときに、思わず口をついて出る、ヨッコラショなのです。
ブッダは死の床で、うろたえ、絶望(ぜつぼう)する弟子たちに、自分が亡くなった後は、これまで教えた法をみずからの中にしっかり根づかせ、それをよりどころにして、他人に頼らずしっかりと生きなさいと諭(さと)しました。それが自灯明(じとうみょう)、法灯明(ほうとうみょう)という教えとなって、伝わっています。
「自分をよりどころにせよ、法をよりどころにせよ」というブッダの教えを生きるためには、ともすれば崩れそうになる自分をささえる杖ことばが必要なのです。
「転(ころ)ばぬ先の杖」ということわざがありますが、このときの杖とは、先人たちが、生活の中で得た智慧(ちえ)の言葉なのかもしれません。
人生の折節(おりふし)で、私をささえてくれたのは、古くからのことわざや格言(かくげん)の類(たぐい)から、法然(ほうねん)、親鸞(しんらん)、蓮如(れんにょ)と続く浄土系(じょうどけい)の宗教者の言葉、キリスト教の聖書や西洋の哲学者の言葉まで、いろいろあります。ここに紹介したのは、ほんの一部です。
このようにして、私は難儀(なんぎ)な時をのりこえてきました。これからも、杖ことばによってささえられて生きていくことでしょう。そのときにどんな杖ことばと出会えるか、年がいもなく、少しわくわくしています。
(「まえがきにかえて」より)
杖ことば
発売日:2016年09月30日