不思議な人であった。そして亡くなったいまも、丸山眞男は“不思議な人”であり続けている。
この世に別れを告げたのは一九九六年(平成八年)八月十五日=奇しくも太平洋戦争の終戦記念日だったから、今年でもう十四年になる。しかし「丸山眞男」という名はいまだに全国紙、月刊誌にしばしば登場するし、毎年何冊か、その名をタイトルや副題に掲げた単行本が出版されている。最近では某新興宗教団体創始者の“霊言対決本”にまで元首相・岸信介とともに冥界から呼び戻されて、関係者を驚かせた。
所説引用等の内容は多岐にわたる。警世の発言を現代に甦らせるといったものも多いが、彼の言説を批判し、呪詛(じゅそ)の言葉を投げかける学者、宗教人も跡を絶たない。要するに、或る種の人びとにとっては、気になって仕方がない存在なのである。フリーターだった若者が、「丸山眞男をひっぱたきたい」などという題名(タイトル)で月刊誌に文章を載せ、一時的にではあるがジャーナリズムの寵児になって、その一文を含んだ単行本が大型書店の店頭に平積みで置かれるという出来事もあった。何故ひっぱたかれる対象が丸山眞男でなければならないのか――説明は至難。だが、余人を以ては替え難いのかもしれない。
丸山眞男が“少壮政治学者”として論壇に登場したのは終戦の翌年、一九四六年五月号『世界』の巻頭論文「超国家主義の論理と心理」によってである。ときに丸山三十二歳。そして三年後に発表した「軍国主義者の精神形態」で、この国の“知的リーダー”という評価が固まった。やがて評論家・加藤周一が、「戦後日本は丸山眞男から始まったのである」と称賛する存在にまで登り詰めるのであるが、彼の専門は“日本政治思想史”で、本人は政治学を(論壇での発言を含め)、あくまでも「夜店」と称していた。驚くべき多才な能力(マルチタレント)の持ち主で、この人は「支店」=つまり第二の専門分野を、「西欧クラシック音楽研究である」と自負していたのである(拙著『丸山眞男 音楽の対話』文春新書)。
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