そして第二段階。障碍を受け入れた春香を含む三人はいよいよダンスバトルに挑む。この項はまさにスポーツ小説だ。聞こえない彼女たちが音を「見て」「感じて」踊る工夫。彼女たちが普段の生活の中やダンスの練習の中で、何に困り、どんな工夫をしているかが実に読み応えがある。できないことにぶつかったら補う方法を考え、練習し、獲得する彼女たちはとてもエキサイティングだ。
特にダンスの描写は圧巻。著者には『YOU!』(双葉文庫)というアイドルグループをモチーフにした小説があるが、そちらでも、文字だけでダンスの動きやリズム、スピードを描写する筆力に魅せられたものだ。
――と書くと、お気付きの読者もいるだろう。読者もまた、聞こえないのである。小説にあるのは文字だけだ。そこから音楽は聞こえない。さらに言えば、彼女たちがどんなダンスを踊っているのか、映像も見られない。彼女たちの手足の動きを逐一説明してくれるわけではないし、どんな曲かを詳細に描写してくれるわけでもない。
けれど私たちはこの小説から音楽を感じる。彼女たちのダンスを、汗を感じる。ステージの興奮を、爆発する喜びを、感じる。聞こえないけど、見えないけど、それでも体感できるのである。聞こえない彼女たちのダンスを、聞こえも見えもしない小説で読む。この構造は決して偶然ではないと見たが、どうか。
物語は、この第二段階で終わってもいいんじゃないかと思わせる大団円を経て、さらにもう一捻り加えてくる。それが第三段階。ここで彼女たちは、健聴者との関わりについて考えることになる。詳細を明かすことは控えるが、第一段階が聾を認めること、第二段階が聾として夢を叶えることを描いているとすれば、それは健聴者にとっては〈他人の物語〉でしかない。第三段階で初めて読者は、この物語を自分のこととして捉えるのである。
ここで語り手の夏子をはじめ、健聴者の存在が効いてくる。夏子は最初、美紗と一緒にいることで「自分も障碍者だと思われたら嫌だな」と感じる。春香の母は、娘の障碍から目を逸らす。澪の恋人だった男性は、聾者がダンスをすることのリスクを説き、やめさせようとする。
しかし物語が進むにつれて、彼らは少しずつ変化する。ここが読みどころだ。春香たちを見て、こんなことができるのかと驚き、こうすればいいのかと納得し、励ましたり励まされたりして一緒に成長していく。それは「健常者が障碍者を助ける」のではない。むしろ逆だ。聾の三人の意志と努力が、周囲の健常者を変えるのである。
努力したってどうしようもないことはある。本書にはまず、その大前提がある。――と、前に書いた。しかし自分のハンデは変えられなくても、周囲を変えることは可能なのだ。
最初は美紗や春香を「可哀想」と思っていた夏子が、後に他の人が「可哀想」と言うのを聞いて反発を覚えるくだりがある。本書をそこまで読んできた読者も、おそらく同じように感じるだろう。それこそが本書の隠されたテーマと言っていい。
本稿の序盤で、〈もしあなたが今、「なるほど、障碍に負けずに頑張る女の子たちの感動物語か」と感じたとしたら、その気持ちを覚えておいていただきたい。そして本書を読んで、本当にそうか確かめて欲しい。〉と書いた。
読んでみて、如何だっただろうか。もう、そうは感じていないはずだ。
『サウンド・オブ・サイレンス』は、可哀想な障碍者が頑張る話ではない。聾だろうが健聴者だろうが関係なく、やりたいことに向けて、情熱を持ちまっすぐ進む者たちの、意志と工夫の物語なのである。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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