北村さんの最新小説は、40歳を目前にして山と出会った女性の物語だ。
「趣味で登山をする編集者の話を聞いているうちに、過去を回想したり人生に思いを巡らせたりと、忙しい日常生活の中ではできないことをする背景として、山はなかなかいいなと思ったのが執筆のきっかけでした」
主人公の「わたし」は、「困ったちゃんの上司」に気をもむ文芸誌副編集長。私生活では同棲までした男との別れを引きずっており、公私とも限界寸前。でも、不器用で弱音を吐くこともできない性格だ。そんなとき、同僚に誘われた初めての山歩きで紅葉のアーチを目にした瞬間、涙腺がゆるむ自分に出会う。泣ける場所を見つけたのだ。
これをきっかけに「わたし」はひとりで山に向かうようになるが、記録に挑むわけでもなく、山に生活を捧げることもない。あくまで心を開くための山歩き。遠足前日のような高揚感が伝わるおやつや着替えの準備の様子も読みどころのひとつだが、とりわけ持参本選びは本好きにはたまらないだろう。戸板康二『あの人この人』、向田邦子『映画の手帖』、川端康成『掌の小説』、吉田健一『私の食物誌』……。主人公が心情に合わせて手に取る本は、さまざまなアンソロジーを手がけてきた北村さんならではのメッセージだ。
夏の槍ヶ岳、秋の常念岳、冬の裏磐梯と自然の美しさに励まされたり、ときにはその厳しさに直面したりしつつ、山をひとりで歩きながら、北村さんいわく「考えても仕方ない過去のこと」を何度も考えながら山道を歩く「わたし」。山で出会う人との付かず離れずの距離感も心地よく、最後は毎度、くたくたになって帰ってくる。
「精神が疲れているときは、体も疲れたがっているんでしょうね」
そして山を歩き始めて3年目、取材で訪れた南の島で主人公は偶然、別れた男に出会う。その時の彼女の対応に、山がもたらした時間の意味がわかるだろう。
壮大な景色や主人公の成長は山の魅力を存分に伝えるが、この作品は山歩きを指南するものではもちろんなく、人生を描いたものだ。
「たとえば槍ヶ岳に登るのが8月の6日間だとしても、1年にはそれ以外の359日の日常がある。仕事などで行き詰まった生活では一方向しか見えないものが、数日間でも日常から外れると視点が変わる。日常に戻るためにも少し立ち位置をずらしてみるというのは必要なのではないでしょうか」
なかなか日常から離れられないという人こそ、まずはこの本で自身が浄化される体験を味わってみてほしい。
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『八月の六日間』 (北村薫 著) 角川書店
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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