- 2016.07.10
- 書評
笑いを誘う一方、怖さも感じさせる“死神”を登場させた伊坂幸太郎の技
文:円堂 都司昭 (文芸・音楽評論家)
『死神の浮力』 (伊坂幸太郎 著)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
かと思えば、『マリアビートル』の中学生・王子慧、『死神の浮力』の本城崇のように狡猾で他人を操ることに長け、悪を楽しむキャラクターもいる。本城も『罪と罰』に言及する。彼は、二十五人に一人いる、良心を持たないサイコパスだとされる。だが、悪を楽しむ王子や本城と、善悪という意識の外で仕事する殺し屋、死神では考えかたに落差があり、『マリアビートル』、『死神の浮力』では両者が摩擦を起こす。一般人、悪を楽しむもの、善悪の外にいるものの三者の意識のズレが、物語を複雑にしていく。
カカシや死神には、人間には見えないことが見通せる。ずる賢い王子や本城は、一般人より何手も先を予想できる。こうした目線の高さや視野の広さの差から生じる齟齬を、伊坂は何度も作品で扱ってきたし、作家としての体質になっているようにも感じる。『ゴールデンスランバー』(二〇〇七年)、『モダンタイムス』(二〇〇八年)、『火星に住むつもりかい?』(二〇一五年)で見張る側の権力と見張られる一般人がせめぎあう監視社会を描いたのも、目線や視野をめぐる物語のヴァリエーションに思える。
死神シリーズにしても、千葉たち調査部の死神は、情報部の指示で動く。千葉は情報部が情報をろくによこさないことに不満を持っている。また、『死神の浮力』を読むと、死神の世界には監査部まであり、情報部の仕事ぶりに問題があることが語られている。人間よりも多くを見通せる死神であっても、死神の組織のなかでは知っていることに差があるわけだ。それは『ゴールデンスランバー』などに描かれた監視社会の権力組織の内部に、階層による権限や取得情報量の差があることと似ている。
そして、この目線の高さや情報量の差は、伊坂の創作術にも関係している。『ラッシュライフ』(二〇〇二年)、『アヒルと鴨のコインロッカー』(二〇〇三年)、『グラスホッパー』など、ある時期までの伊坂は構成の妙で魅せる作家だった。個々の場面を読むだけではよくわからない。すれ違うそれぞれのストーリーを生きている登場人物には、別のストーリーを生きる人物のことはわからない。だが、最終的に物語全体の意外な構図が判明する。伊坂はそういうタイプの構成を得意とし、伏線の回収が巧みだった。登場人物よりも高い目線と多い情報量が与えられ、物語全体を見渡せるのは、作者と彼に導かれた読者である。それは神様(あるいはカカシ)になって世界を俯瞰するような面白さなのだった。
だが、『ゴールデンスランバー』の頃から伊坂は、あえて物語をきれいに構成せず、余剰を残すことを繰り返し試みるようになった。本書でも、伏線が回収されたかと思えば、型通りには盛り上がらず脱力する場面が待っていたり、神様の気まぐれのごとき意外な物語展開に翻弄される。
また、『文藝別冊 総特集 伊坂幸太郎』のインタヴューで伊坂は、映画のDVDをコマ送りにしたり、止めたりしながら、映像で見たアクションを文章に書き起こし、自作の小説に組みこんだことがあると話していた。本書にも、スローモーション的な細かい描写が効果を上げているアクション・シーンがある。死神は、電波に乗った音声を聞きとったり、人間には不可能な倍率でものを見たりすることができる設定だ。感覚の解像度が違う。それに似て作家としての伊坂も、感覚の解像度を変えた描写をすることで、場面を迫力のあるものにしている。
人ならぬものを作中に登場させる伊坂幸太郎は、小説世界の創造主としてそうした技の数々を駆使する。こんな神様の気まぐれならば、何度でも翻弄されたい。
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