天久聖一。あまひさまさかず、と訓む。気になる。ちょこちょこ、雑誌やウェブで見かける名前だ。そして、本誌に短期集中連載された小説の単行本、『少し不思議。』を読み終えて、ますます気になる存在に。彼が複数の人々と一緒に仕事している『バカサイ』や『バカドリル』、『新しいバカドリル』もつい、読んでしまう。一癖ある写真を面白がる『味写入門』(これは天久による単著)もついつい、読んでしまった。そして、何かわかったことがあるのかというと、これがさっぱり捉えどころがない、ということしかわからなかった。これでは話にならないので、少しわかったようなことを書かせてもらおう。たとえば、『新しいバカドリル』という本は、基本的にマンガ家二人(天久聖一+タナカカツキ)の手になる以上、絵に重心がある。どこか歪んだ絵には独特の解説が付されている。その両者が相まって不思議な二次元空間を作り出している。例を挙げよう。「夏休みの自由工作」という章がある。「おならに歌詞をつけよう」とか「カブトムシのメスをオスにしよう」とか、「ホレ薬をつくろう」など、およそ夏休みの自由工作として相応しからざる活動の成果が推奨されている。なかでも「げんだい音楽にちょうせんしよう」には笑った。ジョン・ケージ以後、「げんだい音楽」はなんでもOKになったんだから、「つぎの例を参考に、あなたもげんだい音楽をつくってみましょう」。「スイカ割り誘導をかねた賛美歌」「トランペットと便意による即興演奏」「昼間の銭湯におけるアンビエント」……。そしてそれらのコンセプトが忠実に絵として表現される。つまり、天久聖一は、本来近接しないはずの、微妙に離れた場所にある複数の領域を独自の仕方で結びつけるのだ。
かかる小さな仮説を得て、さて、本書『少し不思議。』について。
さして売れるわけでもないマンガを細々と描き、ときに民放のBSで「お子様キングス」なる、キワどい番組の構成作家をこなしながら、なんとか糊口をしのいでいる、主人公の名前は、大河内辰彦。だが、辰彦は微妙な違和感を日常に抱いている。記憶が欠落しているのだ。弟のように慕ってくれる慎司のことは覚えているし、仕事だってちゃんとこなしている。ただ、決定的に何かを忘れてしまっている。代表的な例が、「菜津子」だ。ある日、辰彦は自分のマンションに帰ると、自室から見知らぬ女が現われ、驚愕する。女は特に驚いたふうでもなく、辰彦を迎え入れる。その女、菜津子との関係を失念しているのは、ほかならぬ辰彦のほうであり、菜津子とは彼女の郷里・鹿児島に行った折に、家族に結婚の許しまで得ている。そんな仲だ。辰彦は菜津子との会話を通じて、自分の記憶の欠落を少しずつ埋める。
そんな小説なのかな、と思いながら読んでいった。つまり、記憶喪失の男と、その男のそばにいて、何かと世話をやく女の、少々エキセントリックな話。だが菜津子本人も本当に存在するのかどうか、どうも曖昧だ。途中、薬物の話が結構長く続く。合成麻薬も覚醒剤も出てくる。辰彦はジャンキーになっていた時期があって、そのせいで記憶が飛んだのかも、とも考える。
だが、そうではなかった。まったく。
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